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死の側から見てみることだ  一遍上人語録


一遍上人語録 -捨て果てて-
坂村真民さん著
 より



生(しょう)ぜしもひとりなり 死するも独(ひとり)りなり されば人と共に住するも独なり

をのずから相(あい)あふ時もわかれても ひとりはいつもひとりなりけり



これは一遍語録の中で最も重要な言葉である。
釈尊も孤独であった。イエスも孤独であった。孤独がこの人たちを偉大にした。

わたしは宇宙そのものが孤独な存在だと思う。わたしはそういう孤独を、この人たちの孤独と言うのである。
人はこれをつかむことによって、三千世界がひらけてゆく。・・

   中略

  万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死するとはいふなり。

ここで言う死とは、死んで生きることなのである。往生と言うのは死ぬことではなく、永遠の生命界に往くということなので、これが本当の不生不滅の真の生(せい)なのである。(「いろふ」は、かかわりあう、あれこれ構う、の意)

死んでからこういうことを知っても、もう遅い。われわれは生きている時、このようなことをはっきりと知って生きてゆかねばならぬ。いっぺん死んでこい。とよく言うのも、ここのところを言うのである。

わたしはよく人に言うが、死の側から見てみることだと。生の方からばかり見ていると、本当のことがわからない。それを生の向こうがわの死の方から見ると、何が善であるか、何が悪であるか、何をなさねばならないか、何が一番大事なことであるかがよくわかる。

仏の教えは死を生にするものである。それをいつの間にか諸行無常の鐘としてしまい、死にゆくあわれをうたうものに堕してしまった。
また独りはいつも独りなりけり、という言葉だけにとらわれ、まことおっしゃるとおりだという人があったら、その人に対してわたしは言いたい。一遍上人の行動を見てごらんなさいと。上人はこの独りは独りなりけりに徹していたから、あの遊行腑算の(ゆぎょうふさん)大生涯を終えることができたのである。

イエスは神の独り子であった。だから多くの人の救い主となることができえたのである。独りに徹することによって衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)(限りない衆生を誓って済度せんという誓い)の仏心がひらけてくるのである。

捨て切った己を独りといっているのである。


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