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思考もできない、議論もできない絶対の世界  一遍上人語録


一遍上人語録 -捨て果てて-
坂村真民さん著
 より


 ああ今も聞こえてくる

 涼しい声の名号よ


一遍上人の言われる名号(みょうごう)というのは、独自独特のものであって、これについては後でも述べるが、名号と念仏について、上人はこう言っている。

 名号を念仏といふ事、意地(いじ)の念を呼んで、念仏といふにはあらず。
 たゞ名号の名なり。
 物の名に松ぞ竹ぞといふがごとし。をのれなりの名なり。

ここでいう「意地の念」とは、仏のすがたを心の中に思い浮かべ念ずることで、身しん・口く・意いの三業(さんごう)のなかの意業(いごう)、つまり心のはたらきによって阿弥陀仏の姿をおもいうかべて念ずることを言う。(しかし名号とは)そういうのではなくて、名号は名号である。大真理である。絶対の法である。名号自体である。わかりやすく言うなら、松は松そのものであり、竹は竹そのものであると同じである、ということになる。

こういう説明の仕方は上人独自のもので、なかなか詩的で含蓄がある。
和讃「百利口語」(ひゃくりくご)の中に


 口にとなふる名号は

 不可思議功徳(ふかしぎくどく)なる故に

 見聞覚知(けんもんかくち)の人もみな

 生死(しょうじ)の夢をさますべし

 信謗(しんぼう)共に利益(りやく)せむ

 他力不思議の名号は

 無始本有(むしほんぬ)の行体(ぎょうたい)ぞ

 始めて修(しゅ)するとおもふなよ

 本来仏性一如(ほんらいぶっしょういちにょ)にて

 迷悟(めいご)の差別(しゃべつ)なきものを

 そゞろに妄念おこしつゝ

 迷(まよい)とおもふぞ不思議なる


と、うたっている。その大意---


 この名号というものは実に不可思議なご利益を持つもので、すぐれた人は皆、生死の迷いを去り、
 名号を信ずる人も、そしる人も、共に恵みを受けるのである。
 そうした名号の本体というものは、始めも終わりもない永遠なものであって、その中に在れば、
 迷いも悟りもないのである。
 そしてそれは修行をして救われるのではなくて、始めから救われているのである。


他力不思議の名号は、無始本有の行体である。つまり始めというもののない永遠の昔から永遠にわたり存在している本体なのである。
釈尊が叫ばれた、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という仏性は、その本体のなかに生き生きと存在しているのである。だから阿弥陀仏を信ずるから救われるのだ、念仏うぃ唱えるから救われるのだ、ということではなくて、わたしたちは始めから、その本体の中にいるのであるから、始めから救われているのだ。それを知ったら迷いもなく、また悟りというものもなく、そんなことで妄念を起したり、迷いの心を起こしたりするのはおかしなことである。・・・・
他力不思議の名号というのは、思考もできない、議論もできない絶対の世界なのである。信仰とか信心とかは、まさにそうあるべきである。信じざるを得ないがゆえに信じるのである。

 
 花には疑いというものがない。
 無心に咲き 
 無心に散る。


釈尊は大宇宙を一つの白い蓮の花だと言われた。この発想は実にすばらしい。


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