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心をどこに置いたらよろしいか   不動智神妙録より

心の置き所

不動智神妙録   沢庵



心をどこに置いたらよろしいか。敵の身の働きに心を置けば、敵の身の働きに心を取られる。敵の太刀に心を置けば、その太刀に心を取られる。敵を切ろうとすることに心を置けば、切ろうとするところに心を取られ、自分の太刀に心を置けば、自分の太刀に心を取られ、切られまいということに置けば、切られまいとするところに心を取られる。相手の構えに心を置けば、その構えに心を取られる。要するに心の置き所はないという。


ある人が、
「自分の心をあれこれ余所(よそ)へやれば、そのやる所にとらわれて相手に負けることになる。わが心を臍(へそ)の下に押し込めて余所へゆかぬようにし、相手の出方に応じて転ずるがよい」という。
もっともな言い分である。
しかし仏法の向上(さとり)の境地から見ると、臍の下に押し込んで余所へやらぬというのは低い段階で、高い境地ではない。修行稽古の際のもの、敬(つつ)しむという字の境地である。
           中略
臍の下へ押し込んで余所へやるまいとすれば、やるまいとすることに心を取られ、先への働きが欠けて、ひどく不自由になる。
あるひとが、問うていうのに、
「心を臍の下に押し込んで働かないのも、不自由で用にたたぬとすれば、どこに心を置いたらよろしいか」
と。
わたしは答えた。
「右手に置いたら、右手に心を取られて、働きが自由にならぬ。眼に置いたら眼に取られて働きが欠ける。右足に置いたら右足に取られて自由がきかぬ。どこか一つ所に心を置けば、ほかの方がお留守になってしまう」
と。
「ではどこに置いたらよろしいか」
「どこにも置かぬことだ。そうすれば心は我が身いっぱいに行きわたり、全体にのびひろがっているゆえ、手のいる時には手の用を、足のいる時には足の用を、目のいる時には目の用をかなえ、必要な所々に行きわたっているので、どこでも必要に応じて、自由な働きをすることができる。万一にも一つ所に定めておくなら、そこに心を取られて働きが欠ける。置き所を思案すれば、思案にとらわれるゆえ、思案も分別も残さず、全身に心をなげ捨てて、どこにも心を止めず、その所々でズバリ用をかなえるがよい。心を一つ所に置くことを偏(へん)に落ちるという。偏とは一方に片寄ったこと、反対に正(しょう)とはすべてに行きわたったことである。正心とは心を全身に行きわたらせて一方に片寄らぬことをいう。心が一か所に片寄って他方が欠けるのを偏心をいう。片寄りを嫌うのである。何事によらず一つ所に固まるのを偏に落ちたものとして、道を修める上で嫌うのである。どこに置こうという思いがなければ、心は全身に伸び伸びと、行きわたっているものだ。心をどこにも止めないで、敵の働きに応じて、その場その場に心を使うべきではないか。全身に行きわたっていれば、手がいる時は、手にある心を使えばよく、足のいる時は、足にある心を使えばよい。一つ所にきめて置くなら、そこにとらわれて、働きがぬけるのだ。心をつないだ猫のように、どこへもやるまいと、我が身にひきとめておくなら、我が身に心を取られることになる。身の内に捨てておけば、余所へゆくものではない、ただ一所に止めぬ工夫こそ、修行である。心をどこにも止めないのが眼目であり肝要である。どこにも置かねば、どこにもあるのだ。心を外に働かす時も心を一方に置けば、他の九方は欠けるのだ、心を一方に置かなければ、十方に行きわたるのだ」





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