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あるがままの現実からつかんだ不動の仏心

仏教詩人 坂村真民さん
『 生きてゆく力がなくなる時 』

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抜粋

「人間のすることのあるがままを、じっと見てこられた。あくことのない人間の欲望や煩悩が、あらゆることをしてきた。」のところが、自分の過去世やこの世でやってきた中の悪、きたないものを言われてると思いましたので抜粋させてもらいました(ちびちゃん)

諸仏諸菩薩は、長い歴史の中で、人間のすることのあるがままを、じっと見てこられた。あくことのない人間の欲望や煩悩が、あらゆることをしてきた。それは、とうてい筆にも口にも表し得ないほどの悪の数々であった。それをじっと見て、じっと耐え、何とかして救いたいものと願いを起こされたのが、諸仏諸菩薩なのである。
あのほのかな微笑の奥にこもる幾千幾万年の人間直視の累積された悲しみ嘆きが、果てしない海のように湛えられていることを知らねばならない。
ああわたしも、あるがままをじっと見つめる目を持たねばならぬ。そこから本当のものが生まれてくるのだ。あるがままを見つめない思想というものは観念でしかない。観念では人は救われない。あるがままの生、あるがままの老、あるがままの病、あるがままの死、それをじっと見つめる。そうしてそこから生まれてくるのが、あの無であり、空なのだ。だから生々発々としている。いのちのしたたる空であり、無である。
シャカ族が亡んでゆくのを、その目で見ていられた釈迦牟尼。キリスト教なら奇跡も起こったであろうが、奇跡も起こらず亡んでしまった。そうしたあるがままの歴史と人間とを、八十年の長い生涯、じっと見続けてこられた胸の中に生まれ育まれてきたのが、あの広大にして無辺な大慈大悲の教えなのである。
しんみんよ、無の実相が、実体がわかったか。そうひびいてくる声がした。
日蓮も佐渡に流されてから、あの何とも言えない温かい涙もろい大慈悲心が生まれてきた。親鸞も越後に流罪になって真実心に触れた。一遍も捨聖(すてひじり)となって初めて、如来の根本義を体悟した。すべてはあるがままの現実からつかんだ不動の仏心であった。
わたしは白隠の地獄大菩薩という書が一番好きであるが、白隠の偉大さは、地獄の実相を本当に知っていたところにある。だからあのようないのちに溢れ、いのちに満ちた書がかけるのである。


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