スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

人は日常的に複数の分人を生きています そのすべてが「本当の自分」です  作家 平野啓一郎

視点・論点 「生きるための発想」2013年08月27日 (火)

芥川賞作家 平野啓一郎さんが、NHK「視点・論点」で『生きるための発想』として「分人主義」を紹介した時の原稿

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/166068.html

作家 平野啓一郎
 
 私の最近の小説『空白を満たしなさい』は、世界中で死者が生き返るというお話です。
といっても、ホラーではなく、生き返った彼らは、淡々と元の生活に戻ろうとします。若くして死んだ主人公の男性もまた、その一人ですが、彼は生き返ったことを、なぜかあまり歓迎されません。記憶を失っている彼は、自分の死の瞬間を思い出せないのですが、そんな夫に妻は、「あなたは実は自殺したのよ。」と告げます。まったく身に覚えのない彼は、その言葉に驚愕します。そして、自分は生前、恨みを買っていたある男から、自殺に見せかけて殺されたのではないかと考えます。その男の行方を探そうとするところから、物語は始まります。そして、死の真相へと辿り着く過程で、彼は、生前には気づかなかった様々な発見をしてゆきます。


 なぜそんな話を書いたのかと、よく尋ねられます。
 私は、父が早くに亡くなっていまして、その享年が36歳でしたから、自分が同じ年齢を迎える時には、私なりの死生観を小説のかたちにしたいと考えていました。丁度、その構想中に、東日本大震災が起こり、メディアを通じて多数の犠牲者を目にすることとなりました。
 私は、愛する人を亡くした人が抱く一番強い思いとは何だろうかと考えていました。
 私の場合、とにかくいつも思っていたのは、死んだ父にもう一度、会いたいということでした。ですから、その最も強い感情を、この小説の起点にすることにしました。人が生き返るという設定は、死者との「再会」の一つの表現に過ぎません。

 この歳になるまで、私は、父以外にも、何度となく人の「死」に接してきましたが、実のところ、訃報を知ってすぐに涙が出ることはマレでした。どちらかというと、最初はただぼんやりとしていて、特に子供の頃は、そういう自分を冷淡に感じたこともあります。
 死の実感は、幾らか遅れて訪れます。例えば、日常生活の中で、なにかちょっとしたことをその人と話したいと思った時。或いはまた、その人が好きだったものを見つけて、プレゼントしてやりたいと思った時。そういう時に、その人はもう「いない」ということを否応なく痛感させられます。愛する人の死とは、そうした不在の悲しさなのだと私は思います。
 他方で、津波で亡くなった方の遺族の姿をテレビで見ながら、私は、その順序が逆のこともあると感じました。彼らがまず経験したのは、さっきまで一緒にいた人が「いない」という現実の方です。そして、あとからそれが「死」であると判明する、という状況でした。
 私は『空白を満たしなさい』の中で、人間の生死を、この「いる」ということと「いない」ということ、あるいは「ある」ということと「ない」ということの根源的な体験から、改めて考え直してみることにしました。

 この発想は、自殺について考える上でも、大きなヒントを与えてくれました。
 昨年は、年間三万人を切ったとは言え、日本では依然として、非常に多くの人が自殺によって命を失っています。十年間で三十万人。自殺遺族の数は、更にその何倍にもなります。私も知人を何人か自殺で失っています。

 ほとんどの場合、自殺は、複数の要因が絡んでいますし、多様なケースがありますから、決して単純化はできません。しかし、その帰結は、自己の存在がこの世界から消えて無くなってしまう、という一つの事実です。

 自殺には、「殺す」という文字が用いられているために、人は、自分を殺すほどの理由とは一体どんなものなのだろうかと考えます。死という観念もまた、同様に極めて重大なものですから、何があろうと、自殺という選択は不合理に感じられます。そこから、「死ぬ勇気があるなら何でもできるはずだ」とか、「命を粗末にするのはけしからん、赦せない」といった意見が出てきます。

 しかし、自殺者は本当に死にたくて死んでいるのでしょうか? 私はずっとそのことを疑っていました。自殺は本当に、「自分を殺す」という言葉で捉えられる行動でしょうか?
 私たちが、非常に大きな苦しみの渦中にあり、自分に対して否定的な感情を抱く時、その心の内で生じている思いは、「死にたい」というより、もっと直接的に、今のこの状況から「逃れたい」、「楽になりたい」、「消えてしまいたい」、あるいはこの辛い自分を「消し去りたい」といったものではないでしょうか。「死」というより「無」の状態を求める感覚。それが、ある特異な混乱の渦中で、自殺という手段と結び合ってしまう、という想像は可能です。もしそうであるなら、自殺者は、必ずしも死にたいから死んだのだ、とは言えないはずです。

 自己愛も自己否定も、環境から完全に切り離して考えることは出来ません。
 私は、「個人」というよく知られた概念に対して、「分人」という概念を最近提唱しています。「分ける」に「人」と書きます。
 「個人」というのは、individualの翻訳語として明治期以降に広まった言葉で、原義は「divideわける」という言葉に否定の接頭辞inがついたものです。つまり「わけられない」という意味です。一人の人間は、これ以上分けようのない、一まとまりの存在だというわけです。
 しかし、多様な場所で、人間関係を生きている私たちの人格は、必ずしも一つではありません。職場や学校での自分と家庭での自分、友達といる時の自分、恋人といる時の自分は、それぞれに異なっているでしょう。
 その一つ一つの自分を、私は「分人=dividual」と呼んでいます。つまり、分ける(divideする)ことができる、という意味です。

 人は日常的に複数の分人を生きています。決して偽りの仮面を使い分けているのではなく、そのすべてが「本当の自分」です。そして、分人の構成比率は常に変化しています。
 ある時、恋人との分人の比率が最も大きく、家族や友人との分人の比率が相対的に小さく感じられていた人は、五年後には、もうその恋人と別れていて、むしろ仕事の関係者との分人の比率の方が大きくなっているかもしれません。

 分人は、基本的に、相手との相互関係によって生じるものです。それは多様な個性の人間と共存する結果です。
 私たちは社会生活を営む以上、否応なく、様々な分人を抱え込まざるを得ません。
 重要なのは、自己愛や自己否定を分人毎に、相手との関係性の中で考えてみることです。
 自分のすべてを肯定し、好きになるというのは難しいことですが、あの人といる時の分人はけっこう好きだ、別のあの人といる時の自分の分人はイヤだ、と考えるのは決して難しくはありません。
 自己否定的な感情が強く生じた時には、それが分けられない、自分という個人全体の問題だと考えず、自分の中のどの分人が問題なのかを考えてみるべきです。学校や会社にいる時の分人は嫌いでも、実は家族と一緒にいる時の分人は好きなのかもしれない。だったら、その好きな分人を足場に、生きることを考えてみてください。

では、どういう分人の構成比率ならより生きやすいのか。そのためには、誰とつきあうべきか、どういう場所で生きていくべきか。

 重要なのは、嫌な自分を消してしまいたい、という感情を、一個人全体を消そうとする自殺の衝動と切り離すことです。
 その上で、私はやはり、生き辛い分人であろうとも、「消したい」と強く念じることの危険を感じます。抱え込んでしまった分人は、時間をかけて、他の生き心地の良い分人を通じて見守りながら生きていくより他はないと考えます。
 自分には友達が三人しかいない、と考えることには寂しさがあります。しかし、生きてゆく足場となるような好きな分人が三つもある、という考え方には、希望があるのではないでしょうか。



関連記事

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ちびちゃん HPもよろしくお願いします http://chibichan931.web.fc2.com/

Author:ちびちゃん HPもよろしくお願いします http://chibichan931.web.fc2.com/

カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
最新記事
ちびちゃんカウンター
検索フォーム
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。