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終戦までに徴用された漁船は92隻。505人の漁師が命を落とした

[証言記録 市民たちの戦争]
漁師は戦場に消えた ~静岡県・焼津港~

録画 
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110488_00000

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110489_00000 


太平洋に面した静岡県焼津市は、鰹節や生(なま)節(ぶし)などの生産が盛んな日本有数の水産都市。

昭和のはじめ、全国に先駆けエンジン付きの鋼鉄漁船が導入され、はるか赤道近くまで鰹を追えるようになったことから焼津は相次ぐ大漁に沸き大いに栄えた。

しかし、昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が始まると、軍用船が不足していた日本軍は、民間の船舶の徴用を本格化。焼津でも90隻以上が徴用され、鋼鉄漁船の大半が軍の輸送船や監視艇として戦地に送られた。漁船だけでなく漁師たちも一緒に徴用され、焼津の活気は一気に失われていった。開戦前年の昭和15年まで上昇の一途をたどっていたカツオの水揚げは開戦3年目には10分の一にまで落ち込み、約300軒あったカツオ節業者は大半が休業に追い込まれた。

そんな中、焼津を離れ遠く南の地へ移住することに活路を求めた人々がいた。
焼津を代表するカツオ節業者だった村松正之助(しようのすけ)が率いた「皇道産業焼津践団(こうどうさんぎょうやいづせんだん)」。フィリピンやボルネオ島でカツオを獲りカツオ節を生産。現地の日本軍や日本国内に販売する計画だった。
しかし皇道産業の人々が南方へ移住を始めた頃、日本軍はガダルカナル島で大敗北を喫し戦況は急激に悪化していった。皇道産業の人々は軍に求められ、カツオの獲れない海域で監視にあたったり、現地で招集されたりして多くが命を落とした。

終戦までに焼津から徴用された漁船は92隻。505人の漁師が命を落とした。
一方、南方に新天地を求めた皇道産業の人々約600人のうち、半数は生きて再び故郷の地を踏むことはなかった。

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