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就活自殺の背景を清水代表が解説 ライフリンク

ライフリンクより
1.12/8に山本孝史さん追悼集会 ~「いのちのバトン」を受け取って~
2.メディア掲載・出演情報
3.近日中の講演予定

なお、これまでに配信された【LL News】はこちらで見られます
http://blogs.yahoo.co.jp/lifelink_2010/

◆◆◆
(転送歓迎)

1.12/8に山本孝史さん追悼集会 ~「いのちのバトン」を受け取って~
 
 自らがんに侵されながらも、命を削って国民の「いのちを守る」政治の実現に尽力した故・山本孝史民主党参議院議員の追悼集会が、12月8日(日)午後2時から開催されます。山本さんの意志を受け継ぎ、自殺対策などに尽力してきた妻のゆきさんとNPO法人「蜘蛛の糸」理事長の佐藤久男さん、そして清水代表が進行役となり、山本さんの活躍と受け取った「いのちのバトン」について考えます。
 山本孝史さんは、5歳の時に兄を交通事故で亡くし、大学生の時から交通遺児の進学支援や交通事故の撲滅を目指した活動に携わってきました。その経験から、「いのちを守る」ことを信条として政治活動を続け、自殺対策の法制化においても、遺族や民間団体と積極的に連携しながら、国会の中での推進役として活躍されました。自殺対策基本法とがん対策基本法が提出された2006年5月の参議院本会議では、自らがんと闘いながら活動していることを明かし、「救える命がいっぱいあるのに次々と失われている」として、両法案の成立に向けた党派を超えた連携を呼びかけました。まさに命を懸けて国民のいのちを守る政治を貫いた姿勢は、今でも多くの自殺対策関係者にとって、大きな原動力ともなっています。
 追悼集会では、その山本さんの活躍を映像で振り返りながら、会場のみなさんも交えて、それぞれの思い出や受け取った「バトン(=それぞれの活動)」について語れる場としたいと思います。関心のある方は、ぜひご参加ください。
http://www.ytakashi.net/

▼開催概要
日時:2013年12月8日(土)午後2時~4時半
場所:大阪国際交流センター3階「銀杏」(大阪市天王寺区上本町8-2-6)
※近鉄難波線「大阪上本町」14番出口、市営地下鉄千日前線「谷町九丁目」10番出口からいずれも徒歩約10分
参加無料
申し込み:下記のフォームをご利用の上、ライフリンク事務局(info@lifelink.or.jp)までお申し込みください。
-----------------------------------------------------------------
ここからメールを切り取り、必要事項をご記入の上、info@lifelink.or.jp に送信してください。
件名は「【申込】山本孝史さん追悼集会」として下さい。
-----------------------------------------------------------------
「山本孝史さん追悼集会」への参加を希望します。
1.お名前(ふりがな) :
2.ご所属(ある方のみ):
3.連絡先電話番号   :
4.その他      :
-----------------------------------------------------------------
(ここまで)


◇◇◇
2.メディア掲載・出演情報

「就職活動に関する意識調査」や、清水代表の講演の様子が報道されているので紹介します。

▼「就職活動に関する意識調査」関連
・10/28 中国新聞夕刊に就活調査関連記事「就活中『死にたい』2割/社会に不信感」
・10/29 CS・TBSニュースバード「ニュースの視点」就活自殺の背景を清水代表が解説
http://www.tbs.co.jp/newsbird/lineup/viewpoint/index-j.html
・11/01 雑誌「週間金曜日」に清水代表の寄稿 「就活で五人に一人が"死にたい"」
http://www.fujisan.co.jp/product/5723/b/1010076/

▼清水代表の講演関係
・11/05 朝日新聞山梨県版 清水代表の講演会を紹介「自殺予防対策 先進地に学ぶ」
http://digital.asahi.com/articles/TKY201311040232.html?iref=comkiji_redirect
・11/09 岩手放送"ニュースエコー"「自殺対策について考えるシンポジウム」
・11/10 岩手日報 清水代表の盛岡講演の模様を紹介「自殺の要因、日常にある」
・11/19 佐賀新聞に清水代表の講演会記事「自殺対策、機関連携を 唐津市で講演会」
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.2582770.article.html


◇◇◇
3.近日中の講演予定

■荒川区 人権週間事業講演会
清水代表が、「君たちはどう生きるか~人生物語の主人公になるために~」と題して講演します
日時:12月5日(木)14:00~16:00
場所:サンパール荒川 大ホール(東京都荒川区荒川1-1-1)
申し込み:「人権週間事業講演会」と明記の上、氏名、住所、電話番号を記入し、下記宛先に往復はがきかファックス、電話で申し込む。託児や車いす席、手話優先席希望の方は、その旨も併記する。
申し込み・問い合わせ先:荒川区総務企画課人権推進係(〒116-8501 東京都荒川区荒川2-2-3/TEL:03-3802-3111、内線2271/FAX:03-3802-0456)
http://www.city.arakawa.tokyo.jp/event/kosodate/25jinkenkouenkai.html

■子育て支援連続講座
清水代表が、「若者の自殺はなぜ増え続けるのか」と題して講演します
日時:12月6日(金)19:00~21:00
場所:赤磐市立中央公民館視聴覚室(岡山県赤磐市下市337)
無料
定員:80人(先着順)
申し込み:氏名、住所、電話番号を明示の上、下記宛先まで申し込む。託児希望がある場合は、子どもの年齢など必要な託児内容を明記。
申し込み・問い合わせ先:赤磐子どもNPOセンター(TEL・FAX:086-956-3700)
http://www14.ocn.ne.jp/~akaiwa/index.html

■自死予防フォーラム2013「誰も自殺に追い込まれることのない社会へ」
清水代表が講演します
日時:12月7日(土)13:30~15:40
場所:広島国際会議場地下1階 中会議室(広島市中区中島町1-5)
参加無料、直接会場へ
問い合わせ先:いのちに寄り添う会事務局(TEL:090-5690-2727)

■自殺対策講演会「誰もが生き心地の良い社会をめざして~私たちにできること~」
根岸副代表が講演します
日時:12月7日(土)13:00~15:00
場所:武蔵村山市民総合センター 3階集会室(東京都武蔵村山市学園4-5-1)
対象:武蔵村山市民の方
参加無料、直接会場へ
問い合わせ先:武蔵村山市保健相談センターお伊勢の森分室(TEL:042-564-5421)
http://www.city.musashimurayama.lg.jp/kenkou/008031.html

■生き心地のよい社会を目指して―ゲートキーパー養成研修―
根岸副代表が講演します
日時:12月14日(土)13:45~16:00
場所:浪切ホール(大阪府岸和田市港緑町1-1)
定員:240人(先着順)
申し込み:住所、氏名、電話番号、年齢を添えて、下記宛先まで申し込む。
申し込み・問い合わせ先:岸和田市保健センター(TEL:072-423-8811 FAX:072-423-8833)
http://www.city.kishiwada.osaka.jp/site/kouhou/201311p11.html

■こころの健康づくり講演会 in そお
清水代表が、「自殺を防ぐため いま私たちにできること」と題して講演します
日時:12月15日(日)9:30~11:30
場所:志布志市文化会館(鹿児島県志布志市志布志町志布志2238-1)
参加無料、直接会場へ
問い合わせ先:志布志保健所(TEL:099-472-1021)
http://www.pref.kagoshima.jp/ao06/chiiki/osumi/kenko/documents/35257_20131106105535-1.pdf

■江戸川区いのち見守り隊養成講座(ゲートキーパー養成講座)
根岸副代表が講演します
日時:12月17日(火)14:00~16:00
場所:グリーンパレス4階402会議室(東京都江戸川区松島1-38-1)
対象:江戸川区内在住または在勤の方
定員:50人
申し込み:下記へ電話で申し込む。12月2日(月)9:00より受付開始
申し込み・問い合わせ先:江戸川保健所保健予防課精神保健係(TEL:03-5661-2465)
http://www.city.edogawa.tokyo.jp/kurashi/kenko/jisatsutaisaku/gatekeeper/

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「ガン感謝!」


「ガン感謝!」 


著者の我志普願(元ガン患者)さんは、ある日突然のてんかん症状で倒れ、医師から脳腫瘍と告げられます。

手術で脳の左半身の運動野をほとんど切除したため、

左半身、特に左手は二度と動かないと言われ、さらに余命3か月の宣告を受けました。


絶望の淵に落とされたのでしたが、

生きるために最善を尽くしてあとは「ゆだねる」

という気づきを得て、様々な出逢いや奇跡を引き寄せはじめます。


そして、とうとう末期ガンを克服してしまったばかりか、二度と動かないはずの左手が動き、

今では普通に歩け、発病前より健康になり、元気に講演活動などをなさっています。

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この本には、彼の赤裸々な体験談とともに、

これから病気を克服しようとしている方に向けての具体的なアドバイスが書かれています。


臨死体験のことが、さらっと半ページくらいにさらっと語られています。 

本一冊書いちゃう人もいるくらいの結構な不思議体験のはずなんですが、


非常にためになる本だと思いますので、ぜひぜひ手にとって読んでみて下さい


ご購入はアマゾンからできます♪ ↓
http://tinyurl.com/ll7mz92

東先生のブログはこちら
http://ameblo.jp/gashimasa/

貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の戒め  一遍上人


一遍上人語録 -捨て果てて-
坂村真民さん著
 より


一遍上人の和歌

  ある時、時衆(じしゅう)の尼、瞋恚(しんに:いかりのこと)をおこしたりけるに

 雲となる けぶりたてそ あまのはら
   
   つきは おのれと かすむものかは




尼さんよ、腹を立てることは、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)といって、仏の教えでは三毒の一つに教えられているのだ。一番つつしまねばならぬことだ。それはどうしてかというと、怒り腹立つ煙が雲となって、澄みきった心の月を曇らせてしまうからだ。よく月を見てごらん。あの月は自分自身で煙を出して霞(かす)むだろうか。そんなことはないね。仏の教えでは真如(しんにょ)の月などといって、生まれながらに持っている仏性(ぶっしょう)を、あの月にたとえて言うのだ。腹をたてたらいかん。心の月を曇らす煙を出したらいかんよ。

そう言われてみると尼さんたちも、つい腹を立てたことに苦笑したであろう。何という奇智に富んだユーモアな歌であろう。


生まれた以上は一つの出家だと  一遍上人語録  坂村真民さん

一遍上人語録 -捨て果てて-
坂村真民さん著
 より


わたしは西行も好きであるが、西行とも違う。西行は話し相手にはなってくれるが、わたしの分身にはならない。そこにゆくと、一遍上人はもっとどん底の詩人である。このどん底的なところが、わたしをひきつけるのである。

 華を愛し月を詠ずる、

それは西行である。彼はそのため、世を捨て妻子を捨てた。現代の山頭火もそうであった。どうすることもできない輪廻の業である。

 仏をおもひ経をおもふ、

これも誰とは言わないが、天魔になったり、堕地獄の者になってしまったりする。
そういうことを(一遍)上人は身をもって知っていた。実存の眼は、実に近代的とも言える深さ鋭さである。
こういう危険性は、昔も今も変わりはない。一遍上人は、堕地獄から抜け出す教えを説いてまわったのである。

わたしは生まれた以上は一つの出家だと思っている。在家にあろうと、僧門にあろうと、この世に生まれた以上、それは出家だ。そして、旅することも出家なのである。

ある名の知られた人が、(一遍上人のことを)女をつれて出家するなんて、どだいなっておらんと言っているが、わたしは憤りさえ覚えた。わたしは超一、超二をつれて出家してゆく、あの絵が好きでならないのに、あの画面にひきつけられて一遍上人が好きになったのに、この知名の人は、どうしてこの男と女の心の通い合いがわからないのか。おそらくこの人はあの「一遍聖絵」の画面をじっと見つめていないのではなかろうか。じっと見つめたら、とてもそんなことは言えないものだ。妻超一も子超二も、頭を剃っている。だからもう普通の女ではない。剃らされて剃ったのではなく、剃ることによって夫に父についてゆけるから、進んで剃ったのだ。喜んで剃ったのだ。あの旅に出る、自由な世界に出てゆく妻超一のすっきりとした姿を、じっと見つめるがよい。あの修学旅行にでも出てゆくような超二のいきいきした喜びの顔を、見つめてみるがよい。
一遍上人はそれとは全く反対に、あのとんがり頭がいよいよとんがり、前途三千里の修行の旅に出る、それも、妻と子のいそいそとした姿とはまっく別に、しんけんそのものの顔で足も重そうである。そこがまた、わたしには心せまってくる。その時の心が伝わってくるからである。
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わたしは「一遍聖絵」の中にこの女人が出てくるのが、大層うれしく、ありがたいのである。・・・粟田勇さんの『一遍上人』に一番心ひかれた。あれは宗教家では書けない。やはり作家でないと書けない。踊り念仏の中に超一の姿を見出しているのはさすがである。・・・・・・・・・・・・・・

一遍上人は紫衣(しえ)を着た僧ではない。高いところから説教する僧でもない。時にははだしで歩きまわった大地の僧なのである。今わたしたちが書斎や畳の上で論ずることさえ相すまないような困難な旅のあけくれの中で、これらの語録は生まれたのである。

上人は書き残そうとはしなかった。書いたものがあったかもしれないが、すべて焼いてしまった。・・・・この点、お釈迦さまと同じ、イエス・キリストと同じ、孔子と同じである。

超一が死んだ。一遍上人のそばから消えて、上人はがっくりした。いっぺんに気力が落ちてゆくのを感じた、・・・・・改めてわたしは、一遍上人の体の中に燃えていた、泣きたいような純粋さに打たれた。・・・・・・

一遍上人のナムアミダブツの声は涼しく人の胸にしみとおった。だから非人も乞食もついてきた。あの声は、教えを説いて聞かせる高僧名僧のナムアミダブツではない。一遍上人のナムアミダブツは鳥の声のように、虫の鳴く音のように、自然(じねん)に響く大悲大慈のナムアミダブツであった。

真の自覚者になるために  一遍上人語録


一遍上人語録 -捨て果てて-
坂村真民さん著
 より


・・・・仏教というものは真の自覚者になるための教えであり、真の独り立ちできる人間になるための求道を説く教えなのである。それにもかかわらず、いつの時代でも国家権力を頼みとして栄えてきた。そういう頭がいつも働いていた。本来からいうと、宗教と政治とは、その行き方を異にするものでなくてはならぬ。宗教家と政治家とは人間が違うのである。

釈尊は政治家の血を持って生まれていない。釈尊の血は宗教家の血である。だから一切を捨てられたのである。

仏教ほど自由な教えがあろうか。紐は一切ついていない。すべてが自在である。
不動明王のあの鋭い剣は、束縛するすべてのものを断ち切る剣である。

 畳というのは藺(い)で編んだ敷物のことで、これ一枚あればいい。
 修行の道場も無用だ。
 やたらに寄附を募り歩く勧進僧にもなりたくない。
 説法できる浄い僧でもないから進んではやらぬ。
 偉いポストについたり、規則で縛られたりするのは好まないから、弟子も欲しくはない。
 パトロンなども要らぬので、こびへつらうこともしない。
 着るものも食うものも前世からの果報で、やたらに乞い歩かなくても、なんとか人さまが供養してくださる。
 それもできなくなったら飢死にするまでだ。御馳走はあの世でいただこう。
 世間の立身出世も好まないので、きまったものを身につけず、下さるものを着てきままにいるのが一番いい。
 小袖・帷子(かたびら)・紙衣(かみごろも)・古筵(ふるむしろ)・みの切れ、何でもかまわぬ。
 寒さを防げればいいのだから、あるものを身につけて生きてゆくのだ。
と歌っている。歌っただけではない。上人はこれを実行している。

 飢死にこそはせんずらめ

という気概に、わたしはうたれる。

中略

宗教が目指すのは何ものにも束縛されない精神の独立にある。

死の側から見てみることだ  一遍上人語録


一遍上人語録 -捨て果てて-
坂村真民さん著
 より



生(しょう)ぜしもひとりなり 死するも独(ひとり)りなり されば人と共に住するも独なり

をのずから相(あい)あふ時もわかれても ひとりはいつもひとりなりけり



これは一遍語録の中で最も重要な言葉である。
釈尊も孤独であった。イエスも孤独であった。孤独がこの人たちを偉大にした。

わたしは宇宙そのものが孤独な存在だと思う。わたしはそういう孤独を、この人たちの孤独と言うのである。
人はこれをつかむことによって、三千世界がひらけてゆく。・・

   中略

  万事にいろはず、一切を捨離して、孤独独一なるを、死するとはいふなり。

ここで言う死とは、死んで生きることなのである。往生と言うのは死ぬことではなく、永遠の生命界に往くということなので、これが本当の不生不滅の真の生(せい)なのである。(「いろふ」は、かかわりあう、あれこれ構う、の意)

死んでからこういうことを知っても、もう遅い。われわれは生きている時、このようなことをはっきりと知って生きてゆかねばならぬ。いっぺん死んでこい。とよく言うのも、ここのところを言うのである。

わたしはよく人に言うが、死の側から見てみることだと。生の方からばかり見ていると、本当のことがわからない。それを生の向こうがわの死の方から見ると、何が善であるか、何が悪であるか、何をなさねばならないか、何が一番大事なことであるかがよくわかる。

仏の教えは死を生にするものである。それをいつの間にか諸行無常の鐘としてしまい、死にゆくあわれをうたうものに堕してしまった。
また独りはいつも独りなりけり、という言葉だけにとらわれ、まことおっしゃるとおりだという人があったら、その人に対してわたしは言いたい。一遍上人の行動を見てごらんなさいと。上人はこの独りは独りなりけりに徹していたから、あの遊行腑算の(ゆぎょうふさん)大生涯を終えることができたのである。

イエスは神の独り子であった。だから多くの人の救い主となることができえたのである。独りに徹することによって衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)(限りない衆生を誓って済度せんという誓い)の仏心がひらけてくるのである。

捨て切った己を独りといっているのである。


坂村真民さんの詩  木や草と人間と

 
坂村真民さんの詩

一本の道


木や草と人間と

どこがちがうだろうか

みんな同じなのだ

いっしょうけんめいに

生きようとしているのをみると

ときには彼らが

人間よりも偉いとさえ思われる

かれらはときがくれば

花を咲かせ

実をみのらせ

じぶんを完成させる

それに比べて人間は

何一つしないで終わるものもいる

木に学べ

草に習えと

わたしはじぶんに言いきかせ

今日も一本の道を歩いて行く

信不信をえらばず 浄不浄をきらはず

一遍上人語録 -捨て果てて-
坂村真民さん著
 より


信不信をえらばず
浄不浄をきらはず


どちらも大変な言葉である。

中略


少しでも信仰の門に入った人なら、大なり小なり、この問題にぶっつかるものである。信じたものが、信じられなくなる。それは信仰のことだけでなく、真剣に生きようとすればするほど、この実存に苦しめられるであろう。
果たして人間に、解決ができるのであろうか。
でもこれは、命を賭けて取り組まねばならぬ、信仰者の大問題なのである。

高野を過ぎて熊野へ行く山中の道でであった一人の僧との話・・・・・・・・・・
その僧は、実に純真である。
そして一遍上人は、さらに純真である。
その純真と純真とが、この山中の道でぶっつかり、この信不信、浄不浄の問題がおおきくなってゆく。
そこのところが、わたしには実に自分の問題として、心ひかれるのである。

信仰が確立していないのに、この札を受け取ると、仏さまにもあなたにも、うそをつくことになります、だからどうしても受け取ることはできません、と言う。なんという純真さであろうか。きっと若い僧であったにちがいない。

一方、渡そうとする一遍上人も、そうですか、ですまされる問題ではない。勧進賦算(かんじんふさん)はすでに天王寺で始めている。そして高野の山でもいよいよその決心を固め、燃え立つ心で熊野に向かっているのである。それだからいっそう、この一言が天雷のように、体ぜんたいを打ち響かせたのである。

「信心おこらずともうけ給へ」とて僧にわたし給ひけり。

これは上人の負けである。でもこの負けが上人を不滅の人とした。・・・・・・・・
一人の人が完成していくには、こういう負けをいくつも体験することが大切だと思っている・・


「一遍聖絵」はこの場面を詳しく描いている。

 御殿の戸を押し開いて、白髪の山伏が現われ、権現の霊告(れいこく)をのべた。

 融通念仏すすむる聖(ひじり)、いかに念仏をばあしくすすめられるるぞ、
 御房(ごぼう)のすすめによりて、一切衆生はじめて往生すべきにあらず。
 阿弥陀仏の十劫正覚(じゅうごうしょうがく)に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と
 決定(けつじょう)するところ也。
 信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし。


この夢告は、まさに大鉄槌(てつつい)であり、また大覚醒(かくせい)でもあった。鉄は打たれて柔らかくなる。
いかに骨身をけずる修行をしても、気負いが我になり、かえって仏の世界から遠ざかってゆく。
そこを打ち砕かれ、目から、うろこがとれた。信不信もなくなった。浄不浄も消え去った。絶対不二、無差別平等の大世界が展開してきた。不動の一遍が誕生したのである。

大切だからもう一度言っておくが、信仰にとって気負いほど恐ろしいものはない。
修行が気負いになる。
学問が気負いになる。
こんにちの言葉でいうなら、優越感である。驕慢(きょうまん)心である。これまでの智真(一遍)には、それがあった。潜在的にしろ、頭のどこかにあった。それを打ち砕かれたのである。

 御房(ごぼう)のすすめによりて、一切衆生はじめて往生すべきにあらず

とは、何という厳しい言葉であろうか。

                                 抜粋ここまで



「あなたの力で衆生(わたしたち)が救われるのではありません。衆生(わたしたち)が救われることは、とうの昔に阿弥陀仏によって決定されています。それよりあなたのやるべきことは、信じるものにも信じないものにも、善人にも悪人にも、すべてのひとに阿弥陀仏の救いが必ず来るという福音を伝えることです。」




思考もできない、議論もできない絶対の世界  一遍上人語録


一遍上人語録 -捨て果てて-
坂村真民さん著
 より


 ああ今も聞こえてくる

 涼しい声の名号よ


一遍上人の言われる名号(みょうごう)というのは、独自独特のものであって、これについては後でも述べるが、名号と念仏について、上人はこう言っている。

 名号を念仏といふ事、意地(いじ)の念を呼んで、念仏といふにはあらず。
 たゞ名号の名なり。
 物の名に松ぞ竹ぞといふがごとし。をのれなりの名なり。

ここでいう「意地の念」とは、仏のすがたを心の中に思い浮かべ念ずることで、身しん・口く・意いの三業(さんごう)のなかの意業(いごう)、つまり心のはたらきによって阿弥陀仏の姿をおもいうかべて念ずることを言う。(しかし名号とは)そういうのではなくて、名号は名号である。大真理である。絶対の法である。名号自体である。わかりやすく言うなら、松は松そのものであり、竹は竹そのものであると同じである、ということになる。

こういう説明の仕方は上人独自のもので、なかなか詩的で含蓄がある。
和讃「百利口語」(ひゃくりくご)の中に


 口にとなふる名号は

 不可思議功徳(ふかしぎくどく)なる故に

 見聞覚知(けんもんかくち)の人もみな

 生死(しょうじ)の夢をさますべし

 信謗(しんぼう)共に利益(りやく)せむ

 他力不思議の名号は

 無始本有(むしほんぬ)の行体(ぎょうたい)ぞ

 始めて修(しゅ)するとおもふなよ

 本来仏性一如(ほんらいぶっしょういちにょ)にて

 迷悟(めいご)の差別(しゃべつ)なきものを

 そゞろに妄念おこしつゝ

 迷(まよい)とおもふぞ不思議なる


と、うたっている。その大意---


 この名号というものは実に不可思議なご利益を持つもので、すぐれた人は皆、生死の迷いを去り、
 名号を信ずる人も、そしる人も、共に恵みを受けるのである。
 そうした名号の本体というものは、始めも終わりもない永遠なものであって、その中に在れば、
 迷いも悟りもないのである。
 そしてそれは修行をして救われるのではなくて、始めから救われているのである。


他力不思議の名号は、無始本有の行体である。つまり始めというもののない永遠の昔から永遠にわたり存在している本体なのである。
釈尊が叫ばれた、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という仏性は、その本体のなかに生き生きと存在しているのである。だから阿弥陀仏を信ずるから救われるのだ、念仏うぃ唱えるから救われるのだ、ということではなくて、わたしたちは始めから、その本体の中にいるのであるから、始めから救われているのだ。それを知ったら迷いもなく、また悟りというものもなく、そんなことで妄念を起したり、迷いの心を起こしたりするのはおかしなことである。・・・・
他力不思議の名号というのは、思考もできない、議論もできない絶対の世界なのである。信仰とか信心とかは、まさにそうあるべきである。信じざるを得ないがゆえに信じるのである。

 
 花には疑いというものがない。
 無心に咲き 
 無心に散る。


釈尊は大宇宙を一つの白い蓮の花だと言われた。この発想は実にすばらしい。


名をあげるとか、人の上にたつとか   一遍上人語録


一遍上人語録 -捨て果てて-
坂村真民さん著
 より

一遍上人がつねに口ずさまれた空也上人の言葉。


名を求め、衆(しゅ)を領(りょう)すれば、身心(しんじん)疲れ、

功を積み善を修(しゅ)すれば希望(けもう)多し。

孤独にして境界(きょうがい)なきはしかず。

称名(しょうみょう)して万事を投げ打つにはしかず。

閑居(かんきょ)の隠士(いんし)は貧を楽とし、

禅観の幽室(ゆうしつ)は静(じょう)なるを友とす。

藤衣(とうい)紙衾(かみふすま)はこれ浄服(じょうふく)、

求め易くして盗賊の怖れ無し。



名をあげるとか、人の上にたつとか、手柄をつむとか、善を身につけるとか、
そんなことをすると、かえって身心は疲れ、欲望は増してくる。

だから独り住んでいるのが一番よい。

名号をとなえ、俗世間のことはすべて捨てるのだ。

そして貧を楽しみ、静を友として生きておれば、
盗賊の心配もなく、実に平和でおだやかだ。

いかなるはずかしめも堪え忍ぶ心構えができ  一遍上人語録


一遍上人語録 -捨て果てて-
坂村真民さん著
 より

一遍上人がつねに口ずさまれた空也上人の言葉。



心に所縁(しょえん)なければ、

日の暮るるに随(したが)って止(とど)まり、

身に所住(しょじゅう)なければ、

夜の明くるに随って去る。

忍辱(にんにく)の衣(ころも)厚ければ、

杖木瓦石(じょうもくがせき)を痛しとせず、

慈悲の室(しつ)深ければ、

罵詈誹謗(ばりひぼう)を聞かず。

口に信(まか)する三昧(さんまい)なれば、

市中もこれ道場。

声に随う見仏なれば、

息精(そくしょう)即ち念珠(ねんじゅ)なり。

夜々仏の来迎(らいごう)を待ち、

朝々最後の近づくを喜ぶ。

三業(さんごう)を天運に任せ、

四儀(しぎ)を菩提に譲る。


心身共に何のさわりもないので、日が暮れたら、そこにとどまり、
夜が明けたら、そこを立ち去る。

いかなるはずかしめも堪え忍ぶ心構えができ、
いかなるそしりも気にしないだけの慈愛心も持っている。

それに名号三昧(みょうごうざんまい)の生き方をしていれば、
どんなに騒がしい町中でも道場となり、
一声一声に仏が見えるので、一息一息が念珠となるのである。

夜ごと仏のお迎えを待ち、朝ごと最後の日の近づくのを喜ぶ。

このように身口意(しん・く・い)による三つの行いも天にまかせ、
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の四つのきまりも悟りにまかせて日を送るのである。


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