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ライフリンクより

ライフリンクより

こんにちは。ライフリンク事務局の松谷です。梅雨に入り体調を崩しやすい時期ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。今日は、下記の3点についてお知らせします。

1.このあと17時台の日テレ「news every」で足立区での取組みを紹介予定
2.明日(6/22)の朝日新聞「私の視点」に「自死・自殺」の名称に関する議論掲載予定
3.(7/1)「子どもの貧困対策法」を生かすためのセミナー開催 講師に清水代表


なお、これまでに配信された【LL News】はこちらで見られます
http://blogs.yahoo.co.jp/lifelink_2010/

◆◆◆
(転送歓迎)

1.このあと17時台の日テレ「news every」で足立区での取組みを紹介予定

ライフリンクは、2009年5月に足立区と「自殺対策の都市型モデル構築」の協定を締結し、地域の実態分析、対策の戦略策定、当事者へのアプローチ、人材養成、そして、実務と連動した啓発など、「モデル」の構築に全面的に関わってきました。
その取組みをさらに強化するため、つまり、キャッチされるようになってきたリスクを抱えた方たちを確実に問題解決へとつなげるべく、2012年4月からは、国のパーソナルサポート(PS)モデル事業を活用し、精神保健福祉士や臨床心理士などの専門スタッフを配置し、事業の実施を担っています。
それらの取組みが、このあと17時台の日本テレビ「news every」にて紹介される予定です。足立区での「自殺対策の都市型モデル」の取組みは、今では先進事例として知られています。ぜひ、ご覧になってみてください。

▼放送予定日時:6月21日(金)
日本テレビ「news every」16:50~(※17時台のコーナーで放送予定)
http://www.ntv.co.jp/every/


◇◇◇
2.明日(6/22)の朝日新聞「私の視点」に「自死・自殺」の名称に関する議論掲載予定

 島根県が「自殺対策総合計画」の中の「自殺」という言葉を、遺族感情に配慮するとしてすべて「自死」に置き換えるという動きがあるなど、「自殺」と「自死」のどちらを使うべきかの議論が起きています。
そうした中で、明日(22日)の朝日新聞朝刊の「私の視点」欄に、自死遺族であり、NPO法人全国自死遺族総合支援センター事務局長の南部節子さんの投稿が掲載されることになったそうです。 
 長らく個人的な問題とされてきた「自殺」の問題は、自殺対策基本法の成立などにより、社会的な問題としての認識が広まり、自殺総合対策大綱には、「その多くが追い込まれた末の死」であると記載されました。「自殺」に対する捉え方が変わってきた今、注目すべき論点かと思いますので、ぜひご一読ください。


◇◇◇
3.(7/1)「子どもの貧困対策法」を生かすためのセミナー開催 講師に清水代表

 親から子どもへの貧困の連鎖を防ぐための「子どもの貧困対策法」が、今月19日、成立しました。しかし、この法律にうたわれた理念を実現させていくには、これからの大綱づくりや実効的な対策の立案が欠かせません。
7月1日(月)に「『なくそう!子どもの貧困』全国ネットワーク」が開催するセミナーでは、自殺対策基本法・自殺総合対策大綱の策定に関わってきた清水代表が講師として登壇し、その経験から、今後の子どもの貧困対策において必要な取り組みについてお話しします。関心のある方は、ぜひご参加ください。
http://end-childpoverty.jp/archives/2044

以下、ホームページより転載-----------------

2013年度「子どもの貧困」を考える連続セミナー
第1回:「生かそう!子どもの貧困対策法-自殺対策基本法の取組みに学ぶ」

【概要】
「子どもの貧困対策法」が、今国会で審議されています。法律は、市民の手で使いこなしてこそ、実効性のあるものになっていきます。そこで、自殺対対策基本法の制定をもとに、総合的な対策/支援活動を展開されてきたライフリンクの清水さんにおこしいただき、その取り組みの経験に学ぶ機会をもちます。

大綱に何を入れればいいの?
自治体を動かすには?
私たちに出来ることは?
・・・さまざまなアイディアを出し合いましょう。

【話題提供者】
清水康之さん(NPO法人 自殺対策支援センター ライフリンク代表)
【日時】
2013年7月1日(月)19:00~20:30(18:30開場)
【場所】
場所:立教大学池袋キャンパス 12号館 第3・4会議室(地下1階)池袋駅西口より徒歩約15分
アクセスマップ
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/direction/
キャンパスマップ
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/campusmap/
■資料代:500円 (可能な方より)
★事前申し込みが必要です。
参加ご希望の方は、件名に【第1回連続セミナー申し込み】と明記のうえ、?お名前、?お立場・ご所属、?お住まいの都道府県、?電話番号をご記入のうえ、6月28日(金)までに、下記のアドレス宛てにお申し込みください。
mail@end-childpoverty.jp
定員:50人(定員になりしだい締め切ります)
資料代:500円(可能な方より:学生無料)
特に参加票は発行いたしませんので、当日、会場にて、受付・資料代のお支払いをお願いいたします。
★取材ご希望の方は、その旨と取材方法をお申し添えください
※セミナー終了後、20:30から21:00までネットワーク会議を開催します。こちらもふるってご参加ください。
■問い合わせ・当日連絡先:080-1158-3494

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疎開船 対馬丸事件

疎開船 対馬丸 

時は第二次世界大戦の最中
昭和19年(1944)8月21日、18時35分、那覇港から鹿児島に向けて疎開児童767名引率訓導・引率世話人28名を含む一般の疎開者他1661名を乗せ対馬丸(6,754t)が出航しました。
しかし 翌22日22時15分奄美大島沖合いで米潜水艦の魚雷攻撃を受け約10分後に海底に沈んでしまったのです。

1484名の命が失われました。
救助されたのはたった177名(学童は59名)でした。
images[6]


昭和19年7月7日、サイパン玉砕の日の深夜、県知事あてに緊急指令の電報が届いた。
沖縄から老幼婦女子を計10万人本土と台湾に引き揚げさせよ という趣旨のものであった。昭和18年
5月以来既に嘉義丸・湖南丸・台中丸・富山丸などが那覇→鹿児島間の海上で米潜水艦の攻撃を受け
て沈没していることは公然の秘密であり、危険は予想されたが刻々と迫る戦況の悪化は一刻の猶予もな
く、米軍の沖縄上陸は時間の問題であった。
疎開の輸送は軍艦で という親達の願いも聞き入れられず、その夜の那覇港には貨物船3隻が子ども達
を待っていた。和浦丸・暁空丸・対馬丸の3隻で、対馬丸はその中でも最も大きい船であり駆逐艦と砲艦
に守られての出航であった。
因みに沖縄からの疎開船は昭和19年7月から翌20年3月まで178隻 人員にして約7万人が疎開したが、
犠牲になったのは 対馬丸のみで、戦時中は勿論 軍側の絶対秘密として公表されることはなく、この悲痛
なできごとを関係者以外の人々が知るようになったのは昭和37~8年になってからである。

動画
琉智 『ワダツミ~対馬丸に寄せて~』


対馬丸 -さようなら沖縄- 1 -
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対馬丸記念館ホームページ

大東亜戦争の真実 -『侵略の世界史』この500年、白人は世界で何をしてきたか-

『侵略の世界史』この500年、白人は世界で何をしてきたか  清水馨八郎 (千葉大学名誉教授)

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抜粋

はしがき
明治以来、日本は欧米を文明先進国と崇め、世界史とは西洋史のこと、西洋からのみ見た世界史のことで、非白人を歴史の表舞台に登場させることはなかった。そのため近代西欧の繁栄を支えた植民地支配の暗黒面を見落としてきた。コロンブスの米大陸到着は、侵略の始まりで白人は「鉄砲と十字架」を手に、残虐非常な手段で全地球をその支配下におさめてしまった。
彼らは、白人以外は人間として認めていなかった。だから新大陸の先住民インディアンら一億人でも、簡単に抹殺できた。インディアンは、日本人と先祖を同じくするモンゴロイドだ。さらにアフリカからの一億人もの奴隷狩り、奴隷貿易、奴隷酷使が続く。
本書は白人の残虐性、侵略性の根源は何か、そして19世紀末までアジアのほとんどの民族が白人の植民地に組み込まれた由来を解明する。
20世紀になって白人の支配に従わぬ唯一の国・日本を、北からソ連、西からイギリス、東からアメリカが一挙に襲いかかったのが大東亜戦争である。白人の手口はコロンブス以来のもので原爆投下、113都市無差別焼土作戦、ソ連の満州侵略の暴虐と、民族抹殺のホロコーストのやり方は、500年変わらず一貫していた
東京裁判は、負けた日本に、白人500年の侵略と残虐、植民地支配の罪のすべてを転嫁するための大芝居であった。この結果、日本人は何もかも日本が悪いと戦争犯罪意識を骨の髄まですりこまれたために、反省自責の自虐史観にこだわり、敵側の陰謀の世界史を目隠しされてしまった。この虚偽の歴史観で「謝罪を国是」とする「戦後体制」が構築された。これから脱するには、昭和史とか大東亜戦争史などといった短期間の歴史から見るのでなく、歴史のスパンを500年に、空間的視野を地球的規模で大観することで、世界史を読みなおし、真実に迫らねばならない。
ここで初めて、この対戦は日本が一方的に負けた戦争でないこと、日本が一貫して叫び続けた人種差別撤廃の目的が完全に果たされ、地球の地図が一変していることに気がつく。日本は戦争に負けて植民地解放の目的に買っていたのだ。東條さんの映画『プライド』は、日本人の誇りを開く入口になったが、さらにここで、白人侵略の世界史とこれを迎え撃った日本の使命を知れば、一段と自信と誇りを取り戻せると確信する。

下線はちびちゃん

大東亜戦争の真実  -凛として愛ー

凛として愛

靖國神社に祀られている246万6千余柱の英霊は、いまだ侵略戦争の汚名をきせられたままでいる

太平洋戦争(大東亜戦争)はなぜ起こったか?
どんな背景が原因で起こったか?
日本は侵略戦争をしたのか?

これに対して真実を答えることは、ちびちゃんはできません。
なぜなら、戦後教育を受けてきたからです。

東京裁判(極東国際軍事裁判)で、日本は敗戦国として裁かれました。日本は侵略戦争をしたことになりました。

戦後教育はスタートします。
戦後教育はどういう構想の経過をたどったか?

1945年 8月15日:終戦
       9月15日:「新日本建設ノ教育方針」発表。文部省より。
              (しかし、連合国軍総司令部(GHQ)における各指令により、用をなさなくなる)
      10月22日:「日本教育制度ニ対スル管理政策」に関する指令 ~GHQより
      10月30日:「教員及び教育関係者の調査、除外、認可」に関する ~GHQより
      12月15日:「国家の神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止」に関する指令 ~GHQより
      12月31日:「修身、日本歴史及び地理の停止」に関する指令 ~GHQより
             
教育面の戦後処理=占領政策が行われた。
1946年 3月 5日:第一次米国教育使節団来日~GHQの招請
               同時期、日本教育家の委員会設置~GHQよりの指令
       3月  末:米国教育使節団報告書。(=勧告=命令)
       5月    :「新教育指針」発表~文部省より。

       8月   :教育刷新委員会発足。
              (敗戦の原因は、せんじ詰めれば教育の誤りにあり、第2の維新を遂行するその根本に、教育の刷新がある、という位置づけで発足)
1947年 3月31日:「教育基本法」施行~文部省より。
        5月 3日:「日本国憲法」施行。

「新教育方針」の中身各部・各編の内容も、
「今までの日本人はダメ。これからは、アメリカの考え方を学び、新たな日本人になっていかなければならない」ということが、
「これでもか!」というくらい書き連ねてある。
教育刷新委員会はGHQの実質的支配下におかれ、米国教育使節団報告書の範囲を越えないかぎり、自由に活動することは許されなかったようである。


このように、日本の文化・歴史が否定され、国語を解体したうえで、民主的教育とは、
「個人の価値と尊厳を認めること」にあり、「個人の感性、人間尊重」を基本的な教育理念とする教育体系がスタートします。

1952年、サンフランシスコ平和条約において、連合国軍の日本占領体制は解かれ、日本国民の主権が回復された、と教科書にはありますが、
日本人への思考工作、洗脳によって、「時間とともに日本人は消滅する」という教育カリキュラムの基礎が既に完成していたのです。




太平洋戦争(大東亜戦争)はなぜ起こったか?
どんな背景が原因で起こったか?
日本は侵略戦争をしたのか?


戦後教育を受けてきたことは、ここでまずは横においといて、この映画を観てください

『凛として愛』
音楽「Forever Love (Last Mix)」 by X JAPAN



靖國神社の遊就館で上映するために製作された映画。
たった2日間だけ上映され、中国と韓国から抗議を受けて封印されてしまいました。

今年も、広島、長崎、終戦記念日を迎え、テレビや多くの施設では戦争の特集や企画番組が放送されるでしょう。
しかしその多くが相変わらずの自虐史観に彩られているはずです。


歴史の真実、真相に近づきたい。合わせて70分。ご覧ください。


凛として愛1

凛として愛2

凛として愛3

凛として愛4

凛として愛5

凛として愛6

凛として愛7

上記はYouTubeでしたが、DVDを1000円で購入することもできます。
      ↓
愛国女性のつどい花時計

大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書

「断じて日本は侵略戦争をしたのではありません、
自衛戦争をしたのであります」


大東亜戦争の真実―東条英機宣誓供述書
東条 由布子【編】

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天皇に責任なし、責任は我に在り。
封印されたGHQ発禁第一号。

1946年4月29日起訴(4月29日は昭和天皇の誕生日)
1946年5月3日より審理開始
1948年(昭和23年)11月4日、判決の言い渡し開始、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡し終了。
1948年(昭和23年)12月23日午前0時1分30秒より、7人の絞首刑(死刑)の執行、同35分に終了。
この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現天皇誕生日)

この宣誓供述書は、昭和22年12月26日提出
つまり東京裁判のさなか、巣鴨プリズンで書き上げられたもの。
死刑とわかっていて最後の一大 大仕事を成し遂げられた。

全文をとおして繰り返し語られるのは、もっとも述べられようとしているのは、

断じて日本は侵略戦争をしたのではない、自衛のための戦争をしたのだということ
天皇に責任なし、責任は自身に在るということ

--------------------------------------------------------------------------------
解説 渡部昇一 上智大学名誉教授

戦後、東條英機にたいする日本国民の評判は決して良いものではなかった。つねに「悪人」のイメージが付きまとっていた。極東国際軍事裁判(東京裁判)においては、最後まで東條の弁護人が選定できず、結局、清瀬一郎立会人自身が担当することになったほどである。

いまでも覚えているが、私の通っていた中学校に勤続四十年の名物教師がいた。東條の自殺未遂の報に接して、その教師は「ピストル自殺をするならば、なぜ東條はこめかみに銃口を当てなかったのか。情けない人間だ」と憤概していた。私自身もそれを聞いたときにはその通りだと思ったものである。

後日、清瀬弁護人によれば、こめかみを撃てば頭部に多大な損傷がでてしまう。それを写真に撮られでもしたら、後世に恥ずかしいと東條自身が考えたそうである。だから心臓にマーキングして、そこを撃ったのだ、ということだった。

この「東條英機宣誓供述書」は、東條が昭川和十五(1940)年七月第二次近衛内閣に陸相として入閣してから、昭和十九(1944)年七月内閣総辞職するまでの四年間の日本の政治の推移と戦争の動向について、日本国を代表する責任者である東條英機が、東京裁判の証言台に立つにあたり、腹蔵なく語ったものである。

一読すれば、東條が覚悟を決めて本当のことを述べようと、最善の努力を傾注していることが行間から見て取れる。そこには、虚飾や人を貶(おとし)めんとする気持はいささかも見当たらない。

この供述書が占領下の日本で発禁文書であったことも重視すべきである。パール判決書もそうであった。これらの文書を占領軍が公開できなかったのは、そこには真実が述べられており、運合国側こそ大戦の原因になっていること、また東京裁判の訴因は虚構、あるいは夢想であることが白日の下にさらされることを、占領国側が怖れたからであるに違いない。

今回この「供述書」を改めて読み通して、私が少年のときに感じたことと同じことを言っているなあと感慨を覚えた。それは一言で言うなら、日本が真綿でじわじわと首を絞められていっているという閉塞感のようなものである。蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)オランダ政庁との交渉が決裂したとき、子供心に目の前が真っ暗になった。ああ、いよいよ戦争かと思ったものだ。

なぜそう思ったか。それは「日本に石油が来ないこと」を意味したからである。「供述書」を読んでいくと、石油資源をいかに確保するかが、当時の日本と東條のいちばんの間題であり関心事だったことが解る。

ここに書かれていることは、当時の日本の立場を、当時の日本国の最高責任者であり、誰より情報を把握している人間が包み隠さず述べたものである。しかも反対尋問付きであるから、ウソは言えない証言なのである。そしてこの供述にウソがあると反証されるべきものは、何ひとつない。

したがって、東條の供述や見解に賛成反対にかかわらず、今後あの時代の昭和史を書くならば、必ずこの供述を参考にしなければならない。あの当時日本の立場について、日本の首相が考察し、それを議会が承認し枢密院も承認し、天皇陛下も承認せざるを得ない事情があったことを理解しなければ、日本が一方的に悪い国だったと見えてきてしまう。それは歴史にたいして公平な態度ではない。

陸軍きっての努カ家で頭脳明晰な人だった

東條英機は、五十六歳のとき第二次近衛内閣で陸相としてはじめて入閣するが、それまで陽のあたる出世街道を歩んだわけではなかった。歳の近いフランクりン・デラノ・ルーズベルト米大統領と比べると、ルーズベルトが大統領に就任したとき(1933年・51歳)には、陸軍少将、陸軍省軍事調査部長だった。その後は、関東軍憲兵隊司令宮として、満洲に派遺され中央の政治とは物理的にも遠い場所にいたのである。

ではなぜ、そんな東條にスポットライトが当たったのか。そこには、二・二六事件が関係している。事件が勃発したとき、東條は満洲にいたが、叛乱に与(くみ)した者たちを徹底的に取り締まったことが、昭和天皇をはじめ陸軍首脳の目に止まったのである。その有能さと厳格さの故に、重臣たちや陸軍首脳たちに東條を信頼感服せしめたのだった。

時局は風雲急を告げていた。シナ事変は、第一次近衛内閣の「蒋介石政府を相手にせず」という愚かな声明のために、収拾の目処(めど)がつかなくなっていた。やるべきでない戦争をやっているのは誰の眼にも明らかだった(東條は引き込まれた戦争だったと述べている)。ヨーロッパも抜き差しならぬ情勢であり、関東軍は強大なソ違軍と国境を接して相対峙していた。そんな折に、徒(いたずら)に時間を浪費しては、再び二・二六事件のようなことが起きる可能性が充分にあった。ではその陸軍を完全に押さえられるのは誰かということで、東條しかいないと白羽の矢が立った。

東條は、陸軍きっての努力家であり頭脳明晰な人だった。石原莞爾からは想像力が足りないなどと批判されたが、正確に物事を把握し、記憶力は抜群であり(メモ魔でもあった)、彼の事務能力は「超」がつくくらいに優秀だったと言われている。そういう人物の記録である。いくつか記憶違いはあっても、直ちに訂正している。

彼は自分の責任について、その範囲は国際法や刑事法に照らしてではなく、自分の職権範囲内のことにたいして責任を取ると言明している。そして東條は衷心からの天皇崇拝者だった。天皇の信頼も厚く、東條にたいする天皇の信頼は最後まで揺るがなかったと言われている。

「持てる国」と「持たざる国」

繰り返すが、この「東條英機宣誓供述書」は、近現代史の超一級の資料のひとつとして見直されるべきである。もしヒットラーがこのような資料を残したら、誰もがそう扱うに違いない。それに匹敵するくらいの価値があると言っていい。

しかしながら、残念なことに、ここに書かれている東條証言が引用された文献等をあまり見たことがない。東條英機「悪人」説があまりにも蔓延(はびこ)って、参照するに足らずという空気があるのではないか。だとしたら、それはとんでもない間違いである。

近現代史を著述する人たちが陥りやすいのは、日本がやってきたことを単に時系列的に並べて済ませてしまうことである。その作業だけでは、日本は侵略国だったという単純な図柄しか見えてこない。

この「供述書」を読んでも解るように、東條や日本政府がその都度選択した政策は、米英蘭等の相手国の出方(でかた)があっての反応であり、そこには因果関係がある。日本は闇雲に戦争に走ったのではない。その流れを把握しなければ偏頗(へんぱ)に陥ってしまう。幸いにして、この「供述書」は、「いかにして日本が自衛の戦争をしなければならなくなったか」の経緯が詳(つまび)らかにされている。

前述したように、日本は石油や鉄鉱石などの原材料が自前で産出できない。1930年にアメリカが課した高関税をきっかけとして、世界経済はブロック化し、貿易量は1930年から31年の一年間に半分近くに滅少したとまで言われる

「供述書」には出てこないが、当時の言葉で「アウタルキー(autarky)」という言葉がある。これは「自已完結経済単位」と訳されるが、要するに輸出入しないでも近代国家として生きることのできる領土を持っているということである。「供述書」にも出てくるが、「持てる国」(=haves)とは、アウタルキー国家であり、当時で言えばアメリカ、世界の四分の一を植民地にしていたイギリス、インドネシアを領土としていたオランダ、そのほかフランス、ソ連である

東條は、日本が非アウタルキー国家であることを終始一貫主張している。それでも外部から必要な資源などが輸入できれば問題ないのだが、当時のブロック経済のもとでは、それがなかなかできないという意識が絶えず東條の頭のなかにあった。だから、原材料を押さえているアメリカやイギリス、オランダを相手に戦う発想は、東條にはなかった。

そして、「持たざる国」(=have-nots)というのは、奇しくも松岡洋右が画策した日独伊三国同盟の三国であるドイツ、イタリア、日本のことだった。ドイツも石油のためにはルーマニアに進出しなくてはならないと考えていたくらいである。

第三次近衛内閣が発足して間もなく、日本は南部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)のサイゴン近辺に進駐する。進駐の理由は、何よりもインドネシアなど石油資源・鉱物資源の宝庫である南方地域との断絶を恐れたからだ。

その結果、アメリカによる在米日本資産凍結、石油全面禁輸という強烈なしっべ返しを食らうが、日本からすればルーズベルトやヨーロッパ要人の発言から、日本が進駐しなければ仏印を彼らに押さえられそうだと判断せざるを得ない状況にあった。石油問題でアメリカが緩和してくれれば撤兵する用意があった。

ちなみに、石油不足が当時の日本人をどれだけ悩ましていたかというと、こんな逸話がある。

日本海軍を代表する知性の一人、山本五十六が海軍次官のときのこと。葉か石油を生み出す方法を発明したというインチキ話に、彼が引っかかってしまったというのである。ことほど左様に石油の問題は、戦前の人間の平衡感覚を麻簿させてしまうものだった。いくら立派な軍艦や戦闘機をつくろうが、石油がなげればタダの鉄の塊でしかない。

三国同盟の解消とシナ撤兵問題

日本はアメリカの強固な対日制裁を受けながらも、アメリカとの対話をつづける努力をしていた。ルーズベルトは日本を撃つべしという腹はあったものの、アメリカ国民は、自分の国が第一次大戦で参戦し多大な犠牲を払いながら、得るところが少なかったことをまだ覚えていた。そのために、日本と戦争することにたいして反対の意識が開戦直前まで強かった。

その交渉のなか、コーデル・ハル米国務長官が対日覚書に添えた「オーラル・ステートメント(口上書)には、「不幸にして日本政府の指導者のなかには、ナチス・ドイツの侵略政策に深く関与する者がいる」と書かれていた。

これは明白な内政干渉だが、その人物が松岡外相だということもまた明らかで、彼を日米交渉から外すよう要求してきたのである。そしてハル同様、第二次近衛内閣も松岡をもてあましていた。結果、近衛は彼の首を切るべく、内閣総辞職をして、第二次近衛内閣を組閣する(1941年7月18日)。当時の制度では首相が閣僚を自由にクビにできなかったからである。近衛は本気で戦争回避を考えていたのだった。アメリカはハル四原則を繰り返し、日本のシナからの撤兵と三国同盟にたいする態度について、明確な譲歩を求めていた。

私自身は、もし三国同盟を解消するなら、このときしかなかったと思う。というのも、このときだけは口実があったからだ。ドイツがソ運と戦争を始めたからである。日本はソ連と中立条約を結んでいる。だが、ドイツとは同盟関係にある。その捩(ねじ)れを解消すべく、このときに三国同盟を破棄すればよかったのにと思う。そうしていたなら、日本は戦争を回避できたかも知れない。これ以降は誰が首相であっても、戦争は回避できなかったのではないか。

アメリカは、この後交渉しても一歩も譲ったことはない。駐日英大使がイーデン英外相に電報を打っているが、そこでは「松岡の辞任や目本の石油備蓄状況などを鑑(かんが)みると、いまがアメリカとしても日本との交渉の好機ではないか」といった趣旨のことを報告している。しかし、アメリかにはまるで歩み寄りの姿勢は見られなかった。この段になっても、日本の政府も軍部もともに対米戦争の計画は持っていなかった。後日、東京裁判で争われた「共同謀議」が意味を成さないことを示すひとつの証左と言える。

そして昭和16(1941)年9月6日の御前会議を迎える。ここでは、「弾発性」という言葉を使って、徒に対米交渉をずるずると延ばせば、米英蘭による対日制裁のために、日本は戦う力を喪失してしまうということを克明に述べている。石油なし、屑鉄なしで、日本の防衛を司る統帥部としては一歩も譲れなかった。

またシナ撤兵間題についても、譲歩しない理由を「もしここで撤退したらシナの侮日(ぶにち)思想はますます増長し、第二第三のシナ事変が勃発するに違いない」と言い切っている。撤兵したくとも軽々にそうすれば、さらなる混乱が大陸に、そして日本とシナとのあいだに巻き起こることを東條は危惧(きぐ)していたのである。現在のイラク問題で、容易にアメリカが撤兵できないことと同じだろう。

「彼らが戦争に突入した主たる動機は、自衛のためだった」

第一二次近衛内閣総辞職(1941年10月16日)は、東條と豊田外相の意見が合わないことが原因とされた。近衛は、私邸である荻外(てきがい)荘で陸海外の三相と企画院総裁との会議を開いた。

近衛と豊田は外交的妥結があると主張したが、東條はシナ駐兵間題では譲歩はできない、戦争の展望については九月六日の御前会議で論じたことで、いまさらその還元はできないとした。及川海相は首相一任という意見であった。その会談の前日、海軍はアメリカとの交渉継続を希望するが、そのことは言えないので首相一任とする旨を、近衛に伝えていたのである。

それを事前に自分も知っていたら、陸軍としては納得する余地もあっただろうと東條は述懐しているが、海軍としては「戦争ができない」とは公然と言えなかったのだった。しかし自信がないなら、そう主張すべきだったのだが、海相は会議では口を開かなかったのである。

「供述書」を読んでいくと、東條としては、九月六日の御前会議の決定を白紙還元しなくてはいけないという意見をすでに持っていたことが解る。そして、天皇御臨席の御前会議の結論をやり直しをするのは、普通の内閣には容易なことではないからと、近衛の後任には、皇族である東久邇宮稔彦を適任と考え、それを近衛に伝えていた。その提案に反対して、逆に東條を後継首班に推したのは内大臣木戸幸一であった。

大命降下において、木戸は、天皇陛下は最後まで戦争反対である、したがって九月六日の御前会議決定にとらわれないことを、陛下の思召(おぼしめし)として東條に伝えた。それで、東篠は九月六日の御前会議を自紙還元して、有名な甲案乙案をもって対米交渉に入る。

しかし十一月二十六日、ハル・ノートがアメリカより提出される。東傑内閣は、ハル・ノートをアメリカ側の最終通告だったと認識していた。ここで私が残念だったと思うのは、なぜハル・ノートを世界に向けて公開しなかったのか。ここでは日本の言い分はすべて蹴られていた。もし公表していたら、世界中が同情したに違いなかったと思う。そうしなかったのは、東條内閣の最大の失敗の一つだろう。ただ詮方なきは、ハル・ノートは乙案を飛び越して、ハルがその内容に関わっていなかったことであろう。

ハル・ノートというのは、ハリー・ホワイト米財務次官補が作成した。彼は戦後、ソ連のスパイだったことが明らかになっている。ソ連指導部は日本の軍事的脅威を除くため、アメリカを早急に対日参戦に偲す「スノウ作戦」をすすめていたという(1999年8月22日付産経新聞朝刊)。

ハル・ノートを見て、日本はついに戦争がはじまるといった重苦しい雰囲気に包まれた。ここまでの「供述書」を読めば、相手の出方によって、東條が思慮に思慮を重ねながら一歩一歩国策を選択し決定していった経緯が解るだろう。そして、彼は開戦の決定の責任が「絶対的に」天皇にないことを明言している。そして天皇が東京裁判にかからないことが東條の一番の願いでもあった。

天皇に戦争の意思がなかったことは、開戦の詔勅(しょうちょく)に「豈(あに)朕ガ志ナラムヤ」と入れたことでも明らかだった。この修正文言には周囲の反対があったとされる。天皇は戦争をやる気がないのか、それでは士気が下がってしまうと。しかし、これは天皇の「聖旨」の体現だった。と一緒に「皇道ノ大義ヲ中外ニ宣揚センコトヲ期ス」という文言を「帝国ノ光栄ヲ保全センコトヲ期ス」と修正した。これは日本国の面子を棄ててはいけない、膝を屈して無条件降伏はできないという意思のあらわれでもあった。

この「供述書」の最後で、東條はあの戦争が国家自衛戦だったことを縷々(るる)述べている。これが奇しくもマッカーサー元帥が、米上院軍事外交合同委員会(1951年5月3日~5日)で発言した証言とまったく論旨が同じなのである

マッカーサーは、「日本には固有の原材料がない。石油も産出しないし、錫(すず)・ゴムといった多くの原料がない。もしこれらの原料の供給が断ち切られたら、一千万人以上の失業者が発生する。だから、彼らが戦争に突入した主たる動機は、自衛のためだった」と言っているのである。この証言内容は、もっと日本人の知識として広まるべきであるということを、ここに言っておきたい。

そして「供述書」の締めくくりとして、東條は、日本帝国の戦争は侵略でも搾取でもないと言い、自分は日本があの戦争に負けた責任こそ負うべきであっても、東京裁判で問われている「共同謀議」「平和に対する罪」といった「戦争犯罪」を犯してはいないと喝破(かっぱ)している。

その毅然として論理的な東條の姿にたいして、イギリス外交官の良き伝統の資質━それは一流の学者にして著述家であることだが━を、日本人として持っておられる岡崎久彦氏は、戦争の勝ち負けは別として、対外的には日露戦争勝利時の首相だった桂太郎よりは、東條英機のほうが立派だったのではないか、と指摘されている。蓋(けだ)し名言であろう。
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