「“学童疎開船”対馬丸の悲劇」

1. 対馬丸撃沈事件とは
対馬丸記念館ホームページより
http://www.tsushimamaru.or.jp/jp/about/about1.html
(1) 背景

1941年12月にはじまったアジア太平洋戦争。翌年の夏から日本軍は敗戦を重ねるようになり、1944年7月7日、ついにサイパン島が占領されました。「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で、政府は奄美大島や徳之島、沖縄県の年寄り・子供・女性を島外へ疎開させる指示を出します。
予定人数は、日本本土へ8万人、台湾に2万人の計10万人。しかし県民の疎開はなかなか進みません。「勝つ、勝つ」を繰り返す軍の言葉に、沖縄が本当に戦場になるのか判断がつかず、また周辺海域の危険をそれとなく知っていた県民にとって、船に乗ることは一つの「賭け」でした。7月19日、県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令し学校単位で疎開事務をすすめます。多数の兵士が沖縄に移駐し大量の食糧が必要になり、足手まといになる民間人を県外へ移動させることは急務だったのです。いっぽう子ども達は「ヤマトへ行けば汽車にも乗れるし、雪も桜もみることができる」と修学旅行気分ではしゃいでいました。

(2) 対馬丸の出航と撃沈、漂流、救助

対馬丸(6754トン)は、1944(昭和19)年8月21日夕方、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じように疎開者を乗せた和浦(かずうら)丸・暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)・蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指し出航しました。しかし翌22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け対馬丸は沈められてしまいます。建造から30年も経った老朽貨物船・対馬丸は航行速度が遅く、潜水艦の格好の標的だったのです。
ほとんどの乗船者は船倉に取り残されましたし、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波にのまれました。犠牲者数1418名(氏名判明者=2004年8月現在)。イカダにすがって漂流した人々は、付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、奄美大島まで流されるなどして生き延びたのです。
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(3) 「対馬丸」のその後

救助された人々には「箝口令(かんこうれい)」がしかれ、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁じられました。犠牲者や生存者に関する詳細な調査も行われず、沖縄に残された家族に正しい情報が伝わることはありませんでした。また対馬丸事件の後、10月10日には那覇を中心に大空襲があり、翌年の地上戦では県民の4人に1人が犠牲になるなど、さらなる戦争被害を被ったため、対馬丸撃沈事件が知られるようになったのは戦後しばらく経ってからでした。大人が起こした戦争の為に理不尽にも幼い子どもたちがその犠牲になったことから、戦後「“学童疎開船”対馬丸の悲劇」として語られるようになっていきました。

沈没した「対馬丸」の船体は1997年12月、53年ぶりに水深870mの海底で発見されました
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ドキュメンタリーアニメーション 対馬丸 さようなら沖縄

ドキュメンタリーアニメーション 対馬丸 さようなら沖縄
 
第二次世界大戦中、沖縄からの疎開のため、学童を乗せた対馬丸はアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。
700人以上の児童の命が夜の海に消えました。
実際に起きた悲惨な事件を描いた、ドキュメンタリーアニメーションです。

http://www.youtube.com/watch?v=VNmaV7tiDvM

対馬丸記念館(沖縄)

横須賀市観音崎公園 戦没船員の碑

第42回戦没・殉職船員追悼式が執り行われました

日 時 : 平成24年5月15日(火)午前11時〜12時

式 場 : 横須賀市観音崎公園 戦没船員の碑

式次第 : 開式の辞
       国歌斉唱
       黙とう
       式 辞
       献 花
       能楽奉納
       閉式の辞 
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海沿いのため、海からの風と降りしきる雨
御霊の懐いを反映してか、ぐっと迫る感がします。

雨のため、奉納 能楽「海霊」はこの後の懇親会で奉納されました。

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海霊由来記
さきの大戦において国に殉じた船員の数は、実に六万余名にも達している。
 能楽「海霊」は、これら戦没船員の霊を慰め、その徳をあきらかにし、併せて平和を祈るために作られたもの。
 その元の歌詞は、明治37年、ときの国際情勢を憂慮され、世界平和を祈念された明治天皇の御製「四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」を配して平和への指標としたものである。
 昭和46年3月、横須賀市の観音崎公園内に「戦没船員の碑」が建立され、同年5月6日、皇太子同妃両殿下の行啓のもとに第1回戦没船員追悼式が挙行された際、宮越賢治船長の作詞、25世観世左近師の作曲による能楽「海霊」が奉納された。
 それ以来、追悼式典には必ず「海霊」が宮越賢治船長をシテとして観世一門によって奉納されることになった。
 宮越船長は、昭和61年に亡くなられたが、その後は観世一門によって絶えることなく奉納されている。


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能楽『海 霊』の歌詞


船長 宮越賢治 作詞編集
二十五世 観世元正 作曲
 斯様に候者(は)ハ、去(さん)ぬる昭和十二年七月以来の闘ひにて、海運水産界の船に乗り、戦火の中を活躍の中(うち)、不幸海に失はれたる、船員の遺族にて候。
 さきに財団法人戦没船員の碑建立会により、其の霊を慰め、再び斯様の悲みを繰返さず、世界の平和を祈りのため、観音崎に記念碑を建て、後の世までも人々に忘れられず、語り傳へらるゝ。
 此度戦没船員の碑奉賛会による追悼の儀式に招かれたはまことに忝(かたじけな)い事でござる、急ぎ観音崎へ参らばやと存ずる。
 いや何かという内に観音崎でござる。
 扨(さて)もさても美しい景色じゃ、暫く此所に休らうで、追悼の儀を拝み申さばやと存ずる。
 
四方(よも)の海、みな同胞(はらから)とおもふ世に など波風の立ちさわぐらむ
あら有難(ありがた)の折からやな 和(やわ)らぐ光仰がんと 現はれ出(い)でし海霊(かいれい)なり
過ぎにし昭和の戦ひに 海の藻屑と沈み果て 波も音無き水底(みなそこ)に 眠る月日も幾歳(いくとせ)か 照らす光を三浦なる 観音崎の汀(みぎわ)にて、引くや綱手(つなで)も厳(おごそ)かに現れ出づる記念碑を、諸人(もろびと)集(つど)ふ目(ま)のあたり、今見る事の嬉しさよ
安らかにねむれわが友よ 波静かなれ とこしえに
瑞雲(ずいうん)棚引(たなび)く舞の袖 瑞雲棚引く舞の袖 碧(みど)りの海も静まりて 平和の光明(あき)らけく 碑の面(も)のいよゝ輝けば 人の心も和(なご)みつゝ 千代(ちよ)萬代(よろずよ)と榮えなん 萬代かけて 榮えなん

「死のバシー海峡」

バシー海峡――悲しみの海峡

緑十字船、ぶぇのすあいりす丸、亜米利加丸
戦場で負傷した兵士や病気になった兵士を乗せていた船は病院船と言って、甲板や煙突に赤十字のマークをつけて、一目でそれと判るようになっており、マークのついた船は国際法により攻撃してはいけない事となっていたにもかかわらず、容赦なく撃沈された。

日本赤十字社の看護婦さんが乗りこんで、自分自身がマラリヤやテング熱にかかりながら看護に当たっていた、そんな船も片っぱしから撃沈された。

緑十字船、阿波丸
南方の日本占領地には、アメリカ軍人はじめ連合国側の捕虜がたくさんいて、この捕虜の人達に救援物資を運んでくれるよう、アメリカからスイスを通じて申し込んできた。
   
日本はこれを了承して当時一番の優秀船阿波丸を登用してその約束を果たした。 この船は特別の船であるから絶対に撃沈されないよう船のいたる所に緑十字のマークをつけて、船体は白一色に塗装され、夜は航行灯ををつけ、十字のマークにはイルミネーションをつけ、航路と全日程を詳細に相手に報告し、日本へ帰るまでは絶対の安全を約束させた。
無事救援物資を届けての帰り、安全の保証された船という事で南方からの便乗者が殺到して甲板まで人で溢れていた。その阿波丸も撃沈された。
日本はアメリカ側に厳重に抗議したが、うやむやに終わっている。
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対馬丸(学童疎開船)
沖縄上陸を間近にして、本土へ疎開させる為、沖縄の小学生と付添いの一般人をたくさん対馬丸に乗せていた。この船は速度の遅い老朽船だった為、船長は潜水艦にやられる危険を感じ、複雑なジクザク運動をしながらの航行をを主張したのに、指揮官にそれでは到着が遅れるから直線的に航行する事を命令され、撃沈された。

ぐっすり眠って、起こしても起きない子供達を次々と海に投げこんだ。
機関長始め船員は最後まで漂流の子供達を救助したが自分達も戦死した。

赤城丸
トラック島に移民していた日本人に、戦況悪化に伴い引揚げ命令が出て、赤城丸にて引揚げ中撃沈された。小さな筏に十人くらいづつ乗って四日間漂流した。やけどやけがに苦しみながら力尽きて次々海へ飛び込んだ。 赤ちゃんから先に海へ投げ捨てるように言われた。

湖南丸
沖縄からの本土への疎開する沖縄県民、少年航空兵志願者、国家総動員法により関西方面の工場に徴用された十五、六才の少年たちが乗っていたが鹿児島沖で撃沈された。
七百三十名中生存者六名。

この人達は目的地に到着する前に船が沈んでしまった為、乗船者の身分がはっきりしていないという理由で、全く戦後保証の対象から外されている。
当時この船の沈没は、家族にはずっと行方不明と知らされていた。

 
フィリピンと台湾との間の海峡は、当時最も潜水艦に遭遇する恐れのある、死のバシー海峡と言われ恐れられていた。船団を組んで航行中、多分にもれず仲間の船がバシー海峡でやられた。仲間の船の事はかまっておられず、そのまま南方へ向かった。

無事目的を達し再び日本への帰途中、あのバシー海峡にさしかかった時、キラキラ光る波間に米つぶのようなものが見えた。それは行きがけに沈没したあの仲間の船の遭難者がまだ漂流していた。あの日から十二日がたっていた。十二日間も漂流できるのかと、人間の生命力に驚愕した。
殆どの人が意識が少しあるだけで、皮膚はふやかってブクブクになり、引き上げる時皮膚と肉が崩れてしまって台湾の病院で亡くなった。

大海にひとりやふたりの漂流ならいざ知らず、二千名もの漂流者を空から発見した飛行機は無かったものか

船が撃沈され、海中に投げ出されて漂流している人達に向かって、連合軍はしらみ潰しに機銃を浴びせて来た。戦闘意欲を失っていると言うのに、海がまっ赤になるまで。



空母 瑞鶴の最期(Wikipedia)
総員退艦の命令が下り、降旗する軍艦旗に敬礼する瑞鶴乗組員達。
瑞鶴の最期の姿を映しだす劇的な写真(1944年10月25日 エンガノ沖―フィリピン レイテ沖海戦―)

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阿含宗 「太平洋戦争戦没者成仏供養 洋上法要」
5/16、バシー海峡(現ルソン海峡 フィリピン海域)にて執り行われます


阿含宗「太平洋戦争戦没者成仏供養 洋上法要」 5/16 フィリピン海域


今日、愛知県の護国神社にお参りしました

着くや、雅楽の奉納の音が聴こえてきました。
結婚式のようです ^^

お参りした後、境内にある慰霊碑の方へ。
慰霊碑は28ありますが、
一番奥に、フィリピンのレイテ島で散華された連隊の方々の慰霊碑があります。

先日、お参りした時は、30年間、この神社境内、慰霊碑のお掃除をやっているという91歳のおじいさんにいろいろとおはなしを聞くことができました。

今日はお見えにならないので、ちょっと竹ぼうきを拝借・・・
一番奥の慰霊碑のコッパをはらいました。 今日初めてです、恥ずかしながら、、、

おや?向こうの方で、ザッザッ・・・ 竹ぼうきではく音が・・・
おじいさん、いらしたんだ、と行ってみると

小さなお子さん連れのご家族でした。

神社の関係の方かと伺うと、
特になんという関係はないが、5年間、毎月お掃除に来ているという。

旦那さんも、奥さんもまだお若い。
お子さんたちはまだ3才くらいかな
リヤカーにコッパを積むのをお手伝い

ご夫婦は戦争のこともよく知っていて、できれば硫黄島にも行ってみたい、
台湾の高砂族に逢った時の事など、いろいろ語ってくださいました。
高砂族の長老から
「あなたたちは、本当の日本人になってください」と言われた。

「今の日本がどうしようもないってことなんですよね(苦笑)」

「ぼくら、何にも大したことできないけど、何かしたいと思って。。」

毎月、神社の清掃に来ているとの事でした。



さわやかな日差しの日曜日、
心にあったかい そよ風が吹いたみたい 〜。〜。〜。

元気をいただきました。


阿含宗「太平洋戦争戦没者成仏供養 洋上法要」
5/16は、バシー海峡(現ルソン海峡 フィリピン海域)での洋上法要です
バシー海峡は「死のバシー海峡」とも言われるほど、多くの戦艦や徴用船が撃沈されたところです。




海の底に沈む魂の救済について お釈迦様

太平洋戦没者 洋上法要

太平洋戦争で、戦艦、空母、徴用船、輸送船など、多くの船が沈められ、甚大な命が奪われました。
亡骸は、船と共に、今もなお、海底に沈んだままです。

弔う場所のない海底。

慰霊碑一つでもあれば、後世の人たちが訪れて、花を添えて、思いをかけることもあるでしょう。
しかし、冷たい海底では、それもかないません。

墓標ひとつない海の底
おのずと、その悲しみの歴史は人々の心の記憶からこぼれ落ちてきてしまったのではないかと、感じます。

祖国のために生命を投げ出された方々を懐い、慕い、太平洋の現地に行って、
「日本に帰りましょう」と呼びかける時、
どんなふうにするのでしょう?

世の中で生きながらにして覚醒された
お釈迦様なら、
イエス・キリストなら、

あるいは、マザー・テレサなら、
なんとするでしょうか

海に沈んだ御霊をどんな風にして救うのか?

祈るときのイメージで考えると、
上から、天からまばゆい光のようなものがさして、すべてを照らし、海底を照らして
沈む御霊を救う、、、、という感覚があります。

ところで、つぎのようなことを教えていただきました

仏教には、願船という教えがあるそうですが、あるお経で、こう説かれているそうです。


お釈迦様が、
自ら海に出て、
海に潜り、
底に沈む人のところまで行って、
その人を抱えて、
船に持ち上げて、、、


そうやって救うのだそうです。

           、、、、、、、、、、、、、、、、

このことをうかがって
とても、現実的で具体的で、なにやら、むしょうに嬉しくなりました。

ほねをおって、精魂こめて、この身をさし出して、一人ひとりを救う

あれ? にちにちの生活、生そのものみたい、、、、
日常のいとなみに通じる、そう思いました。

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すさまじい働きをして散華された、海の男たち

戦時徴用船の最期
慟哭の叫び


ぼるねお丸
空爆により炎上する「ぼるねお丸」
昭和17年10月16日、アリューシャン列島キスカ島七夕港にて、空爆により炎上雷撃により沈没、座礁

戦時徴用船遭難の記録画展 (大久保一郎画伯遺作展)

平成24年9月8日〜17日
横浜みなと博物館にて

「戦時徴用船遭難記録画展」を開催します当時の 大阪商船(株)社長岡田永太郎氏が、次々と沈められていく社船と犠牲となっていく船員に胸を痛め、厳しい軍秘のなかではありましたが、同社嘱託画家大久保一郎氏に命じ、生存船員等の証言を基に画かれた絵画(30号油彩37点)です。この絵画は、徴用船の悲惨な最期を伝える唯一ともいえる貴重な記録です。
 戦後の混乱でその所在も分からなくなっていたが、昭和57年同社の倉庫より発見されました。このなかで、修復され展示可能となった37点が、現在株式会社商船三井によって保管されています。

  昭和57年からほぼ毎年全国各地で、戦没船員や徴用船の悲惨な最期を広く国民に知っていただくとともに、二度と戦争のない平和な世界の実現を祈念して「戦時徴用船遭難記録画展」を開催しております。
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高千穂丸


共催:公益財団法人 日本殉職船員顕彰会
後援:株式会社商船三井・財団法人日本海事広報協会

太平洋戦争において、輸送途上で亡くなった船員の方々は43%

戦時徴用船というのをご存知ですか

先の大戦で、前線へ兵器・原材料・燃料などの物資を運ぶ、戦時にはまさに重要な役目です。

これまで貿易等で活躍していた商船は、太平洋戦争勃発と同時に、
「戦時徴用船」として軍人や兵器弾薬、原材料・燃料、生活物資などの輸送のためにことごとく軍事徴用されていきました。

ところが
輸送船団に対しての護衛などない状態での船出。

敵からの攻撃にさらされることになります。

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 船尾楼に直撃弾を受けた輸送船
(大久保一郎画伯「戦時徴用船の最後」より)


太平洋戦争において、輸送途上で亡くなった船員の方々は43%と推定されています。
これは陸軍の20%、海軍の16%を大きく上回っています。

画集戦時徴用船の最期
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/senin-ga.htm

太平洋に今も沈んだままの 戦時徴用船

戦時徴用船 2

太平洋戦争の開戦理由は、世界からの孤立と、経済封鎖(ABCD包囲網※)にあった。
資源のない日本は、石油、鉄などの鉱物を求めて南方へ侵攻、戦域を拡大していった。
日本軍の南方侵攻には、兵員や武器等の戦略物資と資源を日本へ輸入するための大量輸送に必要な船隊が不可欠だった。
従って、外・内航路をはじめ、漁船、機帆船に至るまで国家徴用され、戦況が悪化した1942年(昭和17)年以降には、ほとんどの戦時徴用船が、戦火の海に沈んでいったのである。

戦時徴用船

※ABCD包囲網(ABCDほういもう)※は、1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に対する名称。「ABCD」とは、制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、対戦国であった中華民国(China)の頭文字を並べたものである。
東アジアに権益を持つ国々・・・つまり植民地政策を繰り広げていた国々。
戦争を知ろうと思ったら、大航海時代にまでさかのぼる必要があります。
http://chibichan931.web.fc2.com/rekisi.html
http://chibichan931.web.fc2.com/amerikarosia.html
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船舶の被害総数は約7,000に達し、戦没船員は60,609人となっている。
(そのご遺骨は、海底に沈んだまま、未だ祖国に帰れずにいます)

公益財団法人 日本殉職船員顕彰会 ホームページより
http://www.kenshoukai.jp/taiheiyo/taiheiyo.htm
戦没船員の悲惨な実態を伝えるものに、軍人を上回る犠牲といたいけな年少船員の多いことがあげられている。
軍人の損耗率は、陸軍20%、海軍16%となっているが、船員は43% (漁船、機帆船の正確な数字が把握困難なので推計) にもおよんでいる。
また、戦没船員の年齢別分布は、下表の通りとなっている。
この背景には、戦時特例によって海員養成所、商船学校、高等商船学校などの卒業年限が大幅に短縮されて乗船したこと、船舶の急激な喪失による船員の犠牲をカバーするため大量の船員養成が行われたこと、などによるものである。


墓標なき海底に眠る戦没者 わが国だけでも、少なくとも60,609名

墓標なき御みたまに。。。


大東亜戦争中は、貿易、貨物船などの商船だけでなく、機帆船(きはんせん)、そして漁船、さらには個人所有の船までもが、陸軍、海軍に徴用されました。

兵士、兵器、物資の輸送だけでなく、敵軍の監視の任務も命じられました。

兵士、兵器、物資の輸送・・・輸送船団の護衛はなされなかったために、敵軍からの攻撃にもろさらされることになり、多くの船とともに、甚大なる民間の方々が亡くなりました。

敵軍の監視・・・肉眼で敵軍を監視する役目ですから、敵の到来を確認した時、というのは、もうすでにイコール敵からの攻撃にさらされる時であるわけです。

さらに、悲しいことに、これら徴用船には、疎開する児童を乗せた学徒疎開船もありました。
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学童疎開船 対馬丸
1944(昭和19)年8月21日「対馬丸」は、国民学校の生徒・教師・付添人ら1,661人を乗せて那覇港を出港しました。しかし2日目の夜、南西諸島悪石島の北西12キロメートル付近を航行中に、米国の潜水艦「ボーフィン」号の魚雷攻撃を受けて沈没。
乗船していた学童767人、乗組員24人を含む1,484人が犠牲となり、救助されたのは学童59人を含むわずか177人。歴史上きわめて悲惨な出来事でした。

商船、機帆船、漁船、学童疎開船とともに御霊は海底に沈んだまま、未だ発見されることなく、遺骨収集もできず、
まさに、墓標なき地に臥しておられます。

財団法人 日本殉職船員顕彰会 ホームページ ぜひご覧ください
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/senin-his.htm
http://www.kenshoukai.jp/

特攻の記憶語り継ぐ フィリピン人 ダニエル・ディソンさん

日本経済新聞 平成20年8月3日

特攻の記憶語り継ぐ

太平洋戦争末期、米国の軍艦に体当たり攻撃した日本軍の神風特攻隊。初出撃の地、フィリピン・ルソン島に、その記憶を語り継ぐ一人の比人老画家がいる。自宅の一部には自らが描いた特攻兵の絵やゆかりの品を並べ、「カミカゼ博物館」として公開している。若くして散った特攻兵への鎮魂、戦争への戒め……。各国から足を運ぶ人々に思いを伝えている。

「鉢巻きをした二十歳前後のパイロットとすれ違うと、どんなに偉そうな年上の兵士も立ち止まり一礼するんです」
ルソン島中部アンヘレスで暮らすダニエル・ディソンさん(78)がたどる特攻兵の記憶だ。当時、特攻作戦のことは知らされていなかったが、「神風」などと書かれた鉢巻きを締めた若者たちが軍の中で特別な存在であることは理解できた。
日本軍は一九四二年五月に比全土を支配下に置いたが、米軍が四五年三月にマニラを奪回。特攻隊の存在は再占領してきた米兵から聞いた。「日本軍は特攻兵に酒や薬を飲ませて理性を奪い、操縦席に体を縛りつけて出撃させた」。米側はこう説明したが、記憶の中の若者たちのたたずまいとは一致しなかった。

ディソンさんは戦後、画家を志し、マニラのフィリピン大へ進む。画家修業を続けていた三十五歳のころ、特攻関係者の書いた英訳本を読み、特攻兵たちの心情を初めて知る。「戦争の是非とは別に、家族の住む故国を救いたいという願いや自己犠牲の精神に心を揺さぶられた」

早朝の基地を飛び立つ特攻機と思われる機影があらためて脳裏によみがえる。アンヘレスの隣町、マバラカットを飛び立ち、レイテ沖の米空母を撃沈したのが最初の特攻だったことも確認した。

七三年、有償・無償で譲り受けた特攻服などゆかりの品や、記憶と記録をたどって描いた兵士の姿を自宅の一室に並べ、公開し始めた。「比を踏みにじった日本軍をたたえる必要があるのか」との声も多い中、七四年には当時のマルコス政権に掛け合い、飛行場跡地に記念碑も建てた。

「カミカゼ博物館」と名付けた自宅の資料スペースには、比の学生や日本の遺族のほか、欧米人も訪れる。現在の展示点数は約五十点。「特攻兵の命を惜しむ思いと、戦争を憎む気持ちをともに忘れないようにしている」。ディソンさんは来場者にこう語りかける。

二〇〇一年の米同時テロ後、特攻兵と自爆テロリストの類似性が取りざたされるようになった。「特攻兵が死を賭して突入したのは敵の戦艦。一般市民を無差別に狙ったわけではない」としつつ「若い命が犠牲になるのは同じ」と嘆く。
特攻隊が飛び立った基地一帯は太平洋戦争後、クラーク米軍基地として朝鮮戦争やベトナム戦争を経験した。九一年には、比のナショナリズム台頭やピナツボ火山噴火の影響で米軍も撤退。現在はアジアの物流拠点として民間機が飛び交う。

米国で暮らす次男のマリオさん(49)が、資料スペース運営を継ぐことに関心を持っているという。「いつかは任せるかもしれないが、カミカゼを直接見た者にしか伝えられないことだってあるでしょう」。まもなく戦後六十三年。記憶を語り継ぐ日々は続く。
(マニラ闘遠西俊洋) 

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祖国と決別した最期の地

マバラカット
フィリピン、マニラの北に位置する、特攻隊発祥の地


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みちのくの国―日高見  アテルイと田村麻呂

東北新幹線の全線開業を記念してのイベントが目白押し...
十和田市の官庁街では2012年12月4日午後4時から...
十和田古代馬絵巻・・・馬30頭による活劇が行われました。
題材は蝦夷の勇者アテルイと征夷大将軍坂上田村麻呂。

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天皇陛下の御ことば  祖国のために死力を尽して戦った戦没者

平成6年2月、天皇皇后両陛下が硫黄島を行幸啓された時の御製

両陛下は、水を汲み碑の上に注がれ白菊をお供えになられ、島のあちこちに眠る護国の英霊に対し心からのご慰霊を尽されました。


 「先の大戦中の硫黄島における戦いは大洋に浮かぶ孤島の戦いであり、加えて地熱や水不足などの厳しい環境条件が加わり、筆舌に尽しがたいものでありました。この島で日本軍約二万人が玉砕し、米軍の戦死者も約七千という多数に上りました。
 このたびこの島を訪問し、祖国のために精根込めて戦った人々のことを思い、また遺族のことを考え深い悲しみを覚えます。今日の日本がこのような多くの犠牲の上に築かれたものであることに深く思いをいたしたく思います。鎮魂の碑の正面に立つ摺鉢山は忘れがたいものでありました」

 このとき詠まれた御製


精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき


見捨てられた島で、本土を守るために、すさまじく戦った栗林以下2万余の将兵たち。彼らは、その一人一人がまさに゛精魂を込め戦ひし人″であった、と。


 
翌年7月、東京都硫黄島戦没者追悼式に参列した遺族代表に対しての御ことば

 「硫黄島の戦いが終って五十年が経ちました。皆さんには七月六日の戦没者追悼式に参列し、この長い年月を振り返られることに深い感慨をお持ちのことと察しております。
 私どもは昨年二月、硫黄島を訪れました。慰霊碑に参拝し、島を巡り、水もなく地熱の高い厳しい壕生活の中で、祖国のために死力を尽して戦った戦没者をしのびました。二万の未来ある命が失われ、今なお一万の遺骨が地下に眠っていることに尽きることのない悲しみを覚え、今日の日本がこのような多くの犠牲の上に築かれたことに深い思いを致しました」

国の為 重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき 

推薦著書
「散るぞ悲しき」 梯(かけはし)久美子   新潮社 より


硫黄島の兵士たちは、陣地構築で体力を激しく消耗しながらも訓練を怠らず、自らを鍛え上げていった。
何よりも、何としても・・・・・硫黄島を守り抜き、内地(日本本土)への空襲、そして米軍の本土侵攻を防ごうという気迫が、彼らを精鋭に仕立て上げたのだろう。



死力を尽くして戦った日本軍だったが、・・・・しらみ潰しに砲撃を加えてくる米軍によって(1945年)2月26日までに元山飛行場を喪失する。・・・・・・・・・・・・
戦闘らしい戦闘はこれ以後望めず、この先も戦おうとするなら、それは死よりも苦しい出血持久戦となる。しかし、栗林は全将兵に対し、死を急ぐことを許さなかった。
潔い死を死ぬるのではなく、もっとも苦しい生を生きよ――そう兵士たちに命じることが、極限の戦場の総指揮官たる栗林の役割なのであった。

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1945年2月19日 硫黄島に上陸する米軍 (写真提供:池宮商会)

負傷者のうめき声があふれる地下壕には、硫黄の臭いとともに死臭が充満していた。壕内で死んだ者を埋葬する術はなく、兵士たちは戦友の遺体と同居するしかなかった。


(そんな中、本土では、3月10日、米軍による、東京大空襲が起こされる。その時硫黄島では・・・)

依然として日本兵たちが苦しい抵抗を続けていた。自分たちは本土の日本国民に代わって、降りそそぐ砲弾をいま受けているのだ。自分たちが敵の攻撃に耐えているうちは、父母も妻子も無事なのだ―――その思いだけを心の支えにして。


渇きと餓えに苦しみつつ米軍のすさまじい猛攻に立ち向かい、次々と斃(たお)れていった将兵たちの、痩せ衰えた幽霊のごとき姿・・・・

必敗の戦いの苛烈な苦しみの中にあえて部下たちを踏みとどまらせたのは、日本国民を空襲の惨禍から守るためだった。そして自分たちが島を守り、米軍の本土侵攻を遅らせている間に、終戦交渉が進むことを願ったのである。日本の敗戦を予測していた栗林にとって、2万もの部下を絶海の孤島で死なせることの意味は、そこにしかなかったはずだ。



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